"オン・エニー・サンデー"にもベテラン枠で出てたな、くらいの印象でした
WELCOME RACE FANS!! ダートトラックライダー/FEVHOTSレースプロモーターのハヤシです。恥ずかしながら若輩者のわたくし、今回色々と掘り下げてみるまで、ディック・マンのことをほとんどなんにも?知りませんでした。
当コラムで幾度も取り上げている名作映画 "オン・エニー・サンデー" の中で、ハーレーダビッドソンKR750を駆る主役のひとり、マート・ローウィル (1940生まれ) にとって先輩格の友人にして好敵手であり、足首折れてて伝統の編み上げブーツすら履けないのに無理くりマイル戦に出場する痛々しい姿と、2006年GNCピオリアTTでのクリス・カーとヘンリー・ワイルスを従えてのパレードラップくらいしか印象がなかったんです。さすがにいくらなんでも昔のヒトだもんなぁ、と思ってました。
単気筒・軽量ショートトラッカーを育て、この競技を民に広めた立役者!
1950年代から70年代まで、20年以上をプロレーサーとして戦った彼は、全米選手権 (今でいうAFT) だけで実に240レース出走し、2度の年間シリーズチャンピオン、1957年から1973年までの間は常に年間ランキング10位内の成績を維持するなど、極めて優れた、そして息の長いコンペティターでした。
当時のハーレーダビッドソン製Vツインより軽量な英国車を選択し、主流派であったミルウォーキー勢の前に立ちふさがり、内国製品大好きの一部のアメリカ人から "バグシー (害虫・ばい菌)" の愛称? 蔑称? で親しまれた彼はまた、1ライダーであると同時に希有な才能を持つアイディアマンであり、自らの独創的なモーターサイクルを組み上げる能力に長けたファブリケーターでもありました。
プロキャリア初期からハップ・ジョーンズ (1920年代〜1930年代に活躍したレーサーで、1950〜1970年代当時は全米規模のディーラーシップとパーツディストリビューターを経営)の手厚いサポートを受け、その理念と仕組みを咀嚼した彼は、このスポーツの裾野をさらに拡げることを念頭に、市井の人々に十分な戦闘力のある量産ダートトラックマシンを手頃な価格で供するべく、軽量ハイパワーなスペイン製2ストロークエンジンに目をつけます。
伝説の軽量級ショートトラッカー・オッサDMR / ST-1の誕生
1924年スペイン・バルセロナで映写機メイカーとして創業したオッサ = OSSA (Orpheo Sincronic Sociedad Anónima) 社は第二次世界大戦後から二輪車製造を始め、モータースポーツにも力を入れる企業方針で様々なカテゴリーへと挑戦し、好成績をおさめます。
スペインの国技とまで言われるトライアル種目においては1970年代初頭にイギリス人トライアルライダー、ミック・アンドリュースの名を冠した "オッサ MAR" を発表。そして我がダートトラックカテゴリーでは、ディック・マンのアイディア・・・なんせそのプロトタイプはマンの自宅ワークショップで製作されたって話です・・・を存分に活かした量産レーサー "オッサ DMR (ディック・マン・レプリカ) " を企画し、全米で少なくとも150台を販売したと言われています。フレーム設計・製作はかのテリー・ナイト。ディック・マン自身もこのマシンで、1969年のGNCサンタ・フェ・ショートトラックに勝利しています。
1970年代中盤になると、より軽量なフレームワークが特徴の新たなショートトラック専用マシン "オッサ ST-1" がデビュー。白 + 緑のコーポレートカラーと各所の繊細なフレームデザインに目を奪われます。こちらのモデルではダグ・シュウェルマのチャンピオン製フレームが採用されたようです。
正しく速く乗れて・先を見通せて・モノも作れるってすごいなマンさん!
1974年のプロライダーとしての現役引退以降は再びテリー・ナイト (ナイトレーシングフレーム) との恊働で、モトクロスおよびダートトラック用フレームと周辺ハードウェアの製作を本格的に開始。ヤマハTT / XT500用・ホンダXL / XR500用・スズキDR / SP370用などの名品を送り出しています。
ディック・マンが生み出した "オッサDMR" に大きなヒントを得たスペインのブルタコ社は遅れること数年、今日まで愛され続ける名車・アストロ360を大量生産し、アメリカ市場への確かな足がかりを刻みました。その後をさらに追ってハーレー / アエルマッキやヤマハMX / DTなどが2ストローク・ショートトラックマシンの大ブームを呼び起こすことになっていくのです。
ではまた金曜日の "Flat Track Friday!!" でお目にかかりましょう!