ロン・ウッドの名前を知らなくても、ダートトラックレースの世界で極めて優れたパフォーマンスを発揮する "ウッド・ロータックス" という珍しいマシンについて見聞きした方はいらっしゃるかもしれません。南カリフォルニアを本拠とする彼は、若き日からレース用エンジンのチューニングに没頭。彼が仕立てた "作品" の数々は、プロアマ問わず星の数ほどのライダーの大いなる成功はもちろん、現代に至るまでのレースコミュニティ全体に多大な影響をもたらしました。本日は彼が意欲的に取り組んだ、代表的なプロジェクトのほんの一部をご紹介します。

追悼: ロン・ウッド (1928-2019)

カリフォルニア州サウス・パサディナに生まれたロンは、農場経営を生業とする家族と共にオレゴン州に移住、10代後半までをその地で過ごします。V8ホットロッドカーのチューニング技術を早くから身につけた彼の組むマシンは、やがて噂を聞きつけた人々が遠方から買い求めにくるまでに。

18歳で移動手段として初めてのモーターサイクル・英国製のAJS 500cc単気筒を手に入れてからというもの、彼の興味は "より速い独創的な二輪車を作ること" へとフォーカスしていきます。ちょうどそのころ重度のアレルギー性鼻炎を発症したロンは、オレゴンの大農耕地帯に住むことが難しくなり、20歳を節目に幼少期を過ごした南カリフォルニアへとUターン。そしてロサンジェルス近郊のガーデナ市に当時あった 1/2マイルダートトラック・"アスコットレースウェイ" で毎週のように行われていたフラットトラック = 二輪オーバルレーシングと運命的に出会うのでした。

画像: 追悼: ロン・ウッド (1928-2019)

20代半ばで照明器具製造業を起したロンは、100人以上を雇用する4,600平米の自社工場を持つに至りますが、周囲のレース関係者からの強い要望に応え、その工場の片隅を自身最大の興味の実験室・・・最速のダートトラックレーシングマシンを作り出すためのスタジオ・・・へとやがて改装します。本業の照明器具会社創業から25年後、丸ごと他人に売却するまでしばらくは二足のわらじで、その後はフルタイムで、亡くなる直前のつい先頃、90歳近くまで、足掛け70年間をレースマシンビルダー / チューナーとして、西海岸を軸にダートトラックレースシーンで過ごしたことになります。

キャリア初期の意欲作 "デロルト・レッド・ノートン"

画像: キャリア初期の意欲作 "デロルト・レッド・ノートン"

まず手始めにデロルト製キャブレターのダートトラック向けレーシングモディファイというテーマに取り組んだロン・ウッドが、マシンビルダーとして注目されるようになるのは1970年代初頭。トライアンフに比べオーバルレース向きでないと目されていた英国車・ノートンに、AMAフラットトラック唯一の勝ち星を与えた通称 "ビッグチューブ・ライトウェイト" あるいは "Snortin' Norton (鼻息荒いノートン)" と呼ばれる一連のシリーズです。

名選手リッキー・グラハムらと組んだ珍しいXR750時代。

半世紀超の活動で、一般には唯一無二の名車として考えられているハーレーダビッドソン・XR750とロン・ウッドのマッチングは、不思議なことに2シーズンしか続かなかったそうです。彼の独特の性格とハーレー的なるXRのロジック (?) の折り合いが全くつかなかった、という説もあります。

画像: 名選手リッキー・グラハムらと組んだ珍しいXR750時代。

不朽の名車 "WOOD ROTAX" の誕生。

画像: アレックス・ジョーゲンセンとババ・ショバートを迎えたWOOD + CAN-AM + ROTAXテストチームの面々。

アレックス・ジョーゲンセンとババ・ショバートを迎えたWOOD + CAN-AM + ROTAXテストチームの面々。

1970年代のダートトラックレースシーンは、それまで主流だった1マイルの競馬場や四輪共用の1/2マイルレース場でのビッグオーバルレースに加え、ヒューストン・アストロドームやNY・マディソンスクエアガーデンなどの屋内会場を含む "興行型ショートトラックレース" が新たな人気を得た時代でもあります。このような競技形式はやがてスタジアムモトクロス = スーパークロスの原形となるわけですが、そのお話はいずれまた別の機会に。

さてショートトラックでは、重く大柄な750cc二気筒ではなく、瞬発力とマシンの軽快さが有利に働く2ストローク250cc級マシンが特に注目されるようになりますが、スペインのブルタコや、USヤマハなどと同様 (あるいは地続きであることがさらにアメリカ人にとって親しみをもたらしたのか?) カナダのメイカー・CAN-AMの2ストロークエンジンも大いに存在感を発揮するようになります。

画像1: 不朽の名車 "WOOD ROTAX" の誕生。

このメイカーの2ストロークエンジンこそ、オーストリアのボンバルディアROTAX製でした。レースシーンでの一定の評価に大きな手応えを感じた同社は、80年代に入り新たに発売する4ストロークビッグシングル (350cc ~ 600cc) モデルをひっさげ、ファクトリーチームとしてAMAフラットトラックに参加することを計画。その場面でビルダー / チューナーとしてプロジェクトに加わったのがロン・ウッドであり、ここに以来40年近くに渡って第一級のレースマシンであり続ける "ウッド・ロータックス" あるいはまた "高度にチューニングされたダートトラック用ROTAXエンジン" の誕生する瞬間がやってくるのでした。

画像: ローカルレースシーンでは今も第一線級・・・もとい最強クラスを維持するWOOD ROTAX。こちらの現代的にリファインされた大変高級そうな個体のオーナー /ライダーは元ロードレーサーのジョン・コシンスキー。

ローカルレースシーンでは今も第一線級・・・もとい最強クラスを維持するWOOD ROTAX。こちらの現代的にリファインされた大変高級そうな個体のオーナー /ライダーは元ロードレーサーのジョン・コシンスキー。

画像2: 不朽の名車 "WOOD ROTAX" の誕生。

AMA新時代から閉め出される直前の逆転策・単気筒水冷450ccフレーマー。

1980年代半ば以降、単気筒ダートトラックマシンといえばROTAX600、といういわばシェア独占の黄金期が続きますが、21世紀に入り日本製をはじめとしたモトクロスバイクが4ストローク450cc化され、多くのメイカーの参入を促したいAMAは、段階的にレギュレーションを改訂。600cc → 505cc → 450ccへと最大排気量が制限され、さらに発売5年以内の現行型DTXマシンのみしか参加できないよう変革されるに伴い、多くの名ビルダーの作る独創的な "ROTAXフレーマー" は、その活躍の幅を狭めていくことになっていきます。

画像1: AMA新時代から閉め出される直前の逆転策・単気筒水冷450ccフレーマー。
画像2: AMA新時代から閉め出される直前の逆転策・単気筒水冷450ccフレーマー。

こちらの2台はエンジン製造メイカー違いでホボ双子のようなマシンですが、ロン・ウッドが水冷450ccエンジンを搭載してコンプリート販売した21世紀型フレーマー。全米選手権に参加が許されたのは僅か数年でしたが、今でも各地のローカルレースではその美しい姿を目にする機会があります。

相性バツグンのボンバルディアROTAXで再び二気筒マシンを。

ROTAX600か、それ以外の少数派か、とまで一時はシェアを独占したわけですからビルダー各位は面白くありません。とりわけその誕生から常に寄り添ってきたロンの胸中や如何ばかりであったことでしょう。というわけでメゲない鉄人ロン・ウッドは、ボンバルディアROTAX製の、今度は並列二気筒エンジンを入手。プロ選手権最高峰クラス・GNCツインズ向けのマシンをこしらえ始めます。

画像1: 相性バツグンのボンバルディアROTAXで再び二気筒マシンを。
画像2: 相性バツグンのボンバルディアROTAXで再び二気筒マシンを。

2000年代後半、ロン・ウッドはBMW F650 (キャブレター型) 用エンジン2機をもとに、単気筒ウッド・ロータックスを放逐したAMAプロシリーズでもう一花を咲かせるために、この唯一無二のBMWトラッカーを製作。実力あるカリフォルニアンライダーたちにこのマシンで戦うチャンスを与え、西海岸を中心としたスポット参戦ではありつつも、なかなかのインパクトと戦闘力を発揮しています。

最晩年の作品は "CRF1000Lアフリカツイン・ダートトラッカー"。

2017年には発売されたばかりのホンダCRF1000L アフリカツインのエンジンを使ったニューマシンを製作。タンク・シートの形状やカラーリングは彼の定番ながら、はるかに若い友人たちとの恊働で新時代のスタイルに合致したマシンを作り出すことに成功したようです。

画像1: 最晩年の作品は "CRF1000Lアフリカツイン・ダートトラッカー"。
画像2: 最晩年の作品は "CRF1000Lアフリカツイン・ダートトラッカー"。

"お前さん、いい顔つきだな。レーサーなんだろ?"ってマンガみたいな第一声。

画像: "お前さん、いい顔つきだな。レーサーなんだろ?"ってマンガみたいな第一声。

ちょうど10年前の秋、コスタメサだったかニューポートビーチだかのウッド・モーターサイクルズ社を訪れた筆者ハヤシ、と名匠ロン・ウッドと彼の長年の右腕であるアイヴァーソン氏。日本のレース仲間から頼まれた、ウッドフレームに使うベアリング2個を買いに行く "ついでのおつかいの旅" でした。この時ロンはすでに80歳くらいでしたが、西海岸のレースにまつわるあれこれを長い時間をかけ丁寧に説明してくださいました。その情熱は亡くなる直前まで全く衰えなかったとのこと。彼の技術・スピリットは確かに周りの人々へと受け継がれているはず、です。世界中に、日本にも残るウッド・ロータックスは、まだまだこの先も走り続けられますよ。だいたい70年、その筋で活躍した御大ロン・ウッド。最後の旅もお気をつけて!

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