海なしレース場なしの山梨県に暮らし、30過ぎからダートトラック競技にどっぷりと没入してその隅々までも愛し続けて足掛け25年くらい。3週に2回とかのペースで130km先のホームトラックに通い続け、人々と未来のための路面整備を一切厭わず、もちろん自身も淡々と走り続けた男。甲府が生んだ我が国ダートトラックシーンのVIP、小森博之選手が大病の末この世を去りました。享年60歳。

追悼、レースナンバー18・小森博之。

小森選手の大きな功績のひとつは、ホームトラックとして愛した長野県中川村・オートパーククワの名を、長い年月をかけて全国区にまで成したことでしょう。未だSNSが存在せずインターネットから得られるダートトラック関連の話題も非常に希薄・限定的だった2000年代初頭、彼が熱心に発信し続けた "片田舎のローカルトラック情報" にふと目を留め、いわば誘い込まれてその地へ足を運んだダートトラッカーたちの総数は決して少ないものではありません。斯く言う筆者もその1人です。

画像1: 追悼、レースナンバー18・小森博之。

マシンに乗る時間より路面整備してる時間の方が長い、などとよく笑い話にもなっていましたが、可能な限りの良好なトラックコンディションの追求あってこそのスプリント (短距離) レース。石を拾い、水を撒き、重機を操って大地を踏み固め・・・"お客さん状態" でその日その場の状況に対応することよりも、自らの手で遊び場所を整え、より多くの人々にその魅力を味わってほしいと強く願い、率先して汗を流すその真摯な姿勢は、数々のライダーに強烈な印象を残しています。真のローカルダートトラッカーの鑑のようなひと、といって間違いないでしょう。

画像2: 追悼、レースナンバー18・小森博之。
画像3: 追悼、レースナンバー18・小森博之。

筆者主催のレースにも積極的に参戦し、派手さは決して多くないものの、そのステディなライディングで数多の白熱した見せ場を生み出してくれたものでした。ねぇねぇ小森さん、1回くらいぶっちぎりで勝ってくれても良かったんですよ。どこまでも遠慮深いひとだなぁ。

画像4: 追悼、レースナンバー18・小森博之。
画像5: 追悼、レースナンバー18・小森博之。

ご家族はとてもびっくりされてましたけど、毎年の夏祭りちびっこオフロードスクールのこもりせんせいは、細やかな視線と的確な指導で人気上位のインストラクターだったのを筆者は知っています。

画像6: 追悼、レースナンバー18・小森博之。

仕事でわが町東京を訪れるたびにうまいもん食いに行こうぜと誘ってくれたり、あちこち一緒にクルマにバイク積んで出かけたりもしましたね。中部関西の各地、広島のレース、群馬に1日限りの特設トラックを作ってのデモレース、某県某所の凍った湖の上でのアイスライディングなどなど・・・。

画像7: 追悼、レースナンバー18・小森博之。
画像8: 追悼、レースナンバー18・小森博之。

二人三脚で企画した450ccのニューマシン、ほんの数回しか乗ってもらえなかったことがとても残念です。あの仕上がりだったらレース出たってもしかしたらいいところを走ったかもしれませんね。ご自身が全快して現場に戻るまでに各所改良を加えつつ、大勢の人たちにこの車両の楽しさを体感してほしい、と言って託されましたから、小森さんマシンの整備はお嫌いでしたし代わりにきっちり整備して、ピカピカに磨いてやりつつ、葬いかたがた皆で乗り廻しますよ。

画像9: 追悼、レースナンバー18・小森博之。

フリップ芸 (スケッチブックは自前) と乗る方の腕前、そっちに行ってもさらに上がると良いですね。あなたが愛してやまなかった場所の手入れは残った者たちでなんとか続けてみます。
それではまたいつか。
レーストラックで会いましょう。

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