高度に進歩した近年のMotoGPクラスでは、大メーカーが作ったバイク以外が最高峰クラスを走ることがなくなりました。しかし、まだ2ストローク全盛期だった1980年代のGP500ccクラスでは、小さなコンストラクターがフル参戦することができました。今回紹介するフィオールは、そんな大メーカーに果敢に挑んだ存在のひとつでした。

独特のフロントエンドを採用!

1980年代にテレスコピックフォーク以外のフロントエンドを採用し、世界ロードレースGP(現MotoGP)にチャレンジしたコンストラクターといえば、フランスのエルフが有名です。しかし、同じ時代に同じフランスのコンストラクターが、同様の試みにトライしていたことを知る人は、今はもう少ないのかもしれません。

1955年にノガロに生まれたクロード・フィオールはGPマシンだけでなく、フランスのボクサー・バイクスのために公道用マシン作りに協力したエンジニアです。そして彼はロードレースに情熱を燃やす人物であり、ロードレーサーを作るだけでなく、自らハンドルを握りレースに参加するレーサーでもありました。

画像: フランス・ノガロ生まれのクロード・フィオールは、テレスコピックフォーク以外のフロントエンドを用いることを、GPの世界で挑戦した人物でした。 ru.wikipedia.org

フランス・ノガロ生まれのクロード・フィオールは、テレスコピックフォーク以外のフロントエンドを用いることを、GPの世界で挑戦した人物でした。

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彼の作るロードレーサーは、いわゆるホサックフォーク型のフロントサスペンションが搭載されているのが特徴でした。フィオールはこのシステムの考案者のノーマン・ホサックの協力を得て、テレスコピックフォーク以外のフロントエンドを持つマシンによる、当時のGP最高峰の500ccクラスへのフル参戦を開始します。

1980年を限りに自身のレーサーとしてのキャリアにピリオドを打ったフィオールは、1981年にマルク・フォンタン用にフィオール-ヤマハを製作。1982〜1983年にはジャン・ラフォン用にフィオール-スズキを、そして1984〜1985年には、レネ・ラヴィーンとフィリップ・ロビネ用にフィオール-ホンダを製作しました。

1984〜1987年型フィオール500は、ホンダの市販レーサー、RS500のV型3気筒エンジンを搭載していました。

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そして、スイス人ライダーのマルコ・ジェンティーレを起用した1986年から、フィオールはGP500ccクラスへ本格フル参戦することをスタートします!

1989年の悲劇で、終焉したプロジェクト・・・

1984年にプライベーターでGP500ccクラス参戦を開始していたジェンティーレと、ホンダエンジンを積むフィオール500の初年度となった1986年シーズンは、残念ながら完走はわずか5戦、1ポイントも取れずに終わるという結果に終わりました。

しかし、翌1987年はタバコブランドのラッキーストライクがスポンサーになり、その年の第12戦サンマリノGPではフィオール500初となるポイント1点を、10位に入ることで獲得することに成功しました!

1987年、フィオール-ラッキーストライクのマシンに乗るM.ジェンティーレ。

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1988年、フィオールは新たなパワーユニットとして、サイドカーGP用ストローク並列4気筒を採用します。しかし、開幕の日本GPから3戦続けて新型フィオール500はDNFに終わったため、第4戦からは実績あるホンダRS500エンジンを積む旧型を登場させたりして、そのシーズンをしのぐことになりました・・・。

DNFが5戦もあったことが響き、1988年のジェンティーレの獲得点数は8点にとどまり、年間ランキングは前年と同じ24位という結果でした(1988年からは、上位15位までポイント付与)。しかし1989年は、初戦の日本GPは20位でノーポイントでしたが、オーストラリアGP13位、アメリカGP12位、スペインGP12位と連続でポイント獲得に成功します。

最終型のフィオール500。後方排気の2ストローク並列4気筒エンジンは、サイドカーGP用の改造版です。150馬力以上の最高出力を、12,300rpmで発生したといわれています。ホサックフォークの構造上、一般的な位置にラジエターを積むことが難しいので、最終型ではこのように上下側面寄りに分割したタイプを配置していました。

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そして第5戦イタリアGPでは、路面状況に対する安全性の不安を訴えたトップライダーたちがボイコットしたことも幸いして、フィオール500を駆るジェンティーレは、フィオーレ歴代最上位となる4位というポジションをゲットしました!

その後3戦DNFに終わるレースがあったものの、英国GPまでフィオール500とジェンティーレはほぼ順調にポイントを積み重ねていくことになります。スウェーデンGPからのラスト3戦は、負傷により決勝レースを走れないという残念なことになりましたが、33点でランキング17位という結果はプライベーターとしては非常に立派なものと言えるでしょう(カジバワークスのランディ・マモラと同ポイントですが、ジェンティーレはマモラよりランキングはひとつ上という結果でした)。

M.ジェンティーレの勇姿。1989年はフィオール500にとって最良のシーズンと呼べました。

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しかし残念なことに、フィオールとジェンティーレのコンビネーションはこの1989年シーズンが最後ということになってしまいました。同年の11月19日、フィオールとジェンティーレは新たに製作した250ccクラス用のフィオール-アプリリアのテストを地元ノガロのポール・アルマニャックというサーキットで行いました。

すべてのテストプログラムを消化した後、ジェンティーレはフィオールが作ったヤマハTZ350エンジンを搭載するカートに乗り、サーキット走行を楽しみました。しかし、彼は高速でクラッシュバリアに突っ込んでしまい、頭部におった重傷が原因で命を落としてしまうのです・・・。

プロジェクトを共に進めた友であるジェンティーレを失ったフィオールは、その死の衝撃からロードレースの世界から去ることを決めました・・・。

しかし、フィオールの卓越したアルミニウム合金シャシー製作技術を、世の中が放っておくことはありませんでした。その後彼はルノーに請われてスパイダーのアルミシャシーを試作。彼が作ったルノーのシングルシーターは、ルノーの若いドライバー養成プログラムを助けることになりました。

そしてロードレース界は去ったものの、フィオールはアプリリアの公道用モデルの試作作りには協力。またフィオールは昔から好きだった超軽量動力機の製作や、自分で飛行機を操縦しての旅を楽しむことに没頭します。これらの活動をとおしてフィオールは、最も愛したロードレースから去ったことの、喪失感の埋め合わせに励んだのかもしれません・・・。

2001年の12月13日、フィオールはパリから地元ノガロへ帰る飛行機を操縦していましたが、トラブルによりノガロ近郊へ墜落・・・。46歳という若さで、この世を去ることになりました。

1988年シーズンに向け、準備に励むフィオールチームをおさめた動画です

最後にご紹介するのは、1988年シーズン、新スポンサーを迎えてフィオール-マールボロとなったフィオールのチームの、シーズン前の動画です。5分35秒の非常に貴重なムービーなので、ぜひご覧になってください。

画像: Présentation 500 FIOR 88 MotoGP youtu.be

Présentation 500 FIOR 88 MotoGP

youtu.be
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