独特のフロントエンドを採用!
1980年代にテレスコピックフォーク以外のフロントエンドを採用し、世界ロードレースGP(現MotoGP)にチャレンジしたコンストラクターといえば、フランスのエルフが有名です。しかし、同じ時代に同じフランスのコンストラクターが、同様の試みにトライしていたことを知る人は、今はもう少ないのかもしれません。
1955年にノガロに生まれたクロード・フィオールはGPマシンだけでなく、フランスのボクサー・バイクスのために公道用マシン作りに協力したエンジニアです。そして彼はロードレースに情熱を燃やす人物であり、ロードレーサーを作るだけでなく、自らハンドルを握りレースに参加するレーサーでもありました。
彼の作るロードレーサーは、いわゆるホサックフォーク型のフロントサスペンションが搭載されているのが特徴でした。フィオールはこのシステムの考案者のノーマン・ホサックの協力を得て、テレスコピックフォーク以外のフロントエンドを持つマシンによる、当時のGP最高峰の500ccクラスへのフル参戦を開始します。
1980年を限りに自身のレーサーとしてのキャリアにピリオドを打ったフィオールは、1981年にマルク・フォンタン用にフィオール-ヤマハを製作。1982〜1983年にはジャン・ラフォン用にフィオール-スズキを、そして1984〜1985年には、レネ・ラヴィーンとフィリップ・ロビネ用にフィオール-ホンダを製作しました。
そして、スイス人ライダーのマルコ・ジェンティーレを起用した1986年から、フィオールはGP500ccクラスへ本格フル参戦することをスタートします!
1989年の悲劇で、終焉したプロジェクト・・・
1984年にプライベーターでGP500ccクラス参戦を開始していたジェンティーレと、ホンダエンジンを積むフィオール500の初年度となった1986年シーズンは、残念ながら完走はわずか5戦、1ポイントも取れずに終わるという結果に終わりました。
しかし、翌1987年はタバコブランドのラッキーストライクがスポンサーになり、その年の第12戦サンマリノGPではフィオール500初となるポイント1点を、10位に入ることで獲得することに成功しました!
1988年、フィオールは新たなパワーユニットとして、サイドカーGP用ストローク並列4気筒を採用します。しかし、開幕の日本GPから3戦続けて新型フィオール500はDNFに終わったため、第4戦からは実績あるホンダRS500エンジンを積む旧型を登場させたりして、そのシーズンをしのぐことになりました・・・。
DNFが5戦もあったことが響き、1988年のジェンティーレの獲得点数は8点にとどまり、年間ランキングは前年と同じ24位という結果でした(1988年からは、上位15位までポイント付与)。しかし1989年は、初戦の日本GPは20位でノーポイントでしたが、オーストラリアGP13位、アメリカGP12位、スペインGP12位と連続でポイント獲得に成功します。
そして第5戦イタリアGPでは、路面状況に対する安全性の不安を訴えたトップライダーたちがボイコットしたことも幸いして、フィオール500を駆るジェンティーレは、フィオーレ歴代最上位となる4位というポジションをゲットしました!
その後3戦DNFに終わるレースがあったものの、英国GPまでフィオール500とジェンティーレはほぼ順調にポイントを積み重ねていくことになります。スウェーデンGPからのラスト3戦は、負傷により決勝レースを走れないという残念なことになりましたが、33点でランキング17位という結果はプライベーターとしては非常に立派なものと言えるでしょう(カジバワークスのランディ・マモラと同ポイントですが、ジェンティーレはマモラよりランキングはひとつ上という結果でした)。
しかし残念なことに、フィオールとジェンティーレのコンビネーションはこの1989年シーズンが最後ということになってしまいました。同年の11月19日、フィオールとジェンティーレは新たに製作した250ccクラス用のフィオール-アプリリアのテストを地元ノガロのポール・アルマニャックというサーキットで行いました。
すべてのテストプログラムを消化した後、ジェンティーレはフィオールが作ったヤマハTZ350エンジンを搭載するカートに乗り、サーキット走行を楽しみました。しかし、彼は高速でクラッシュバリアに突っ込んでしまい、頭部におった重傷が原因で命を落としてしまうのです・・・。
プロジェクトを共に進めた友であるジェンティーレを失ったフィオールは、その死の衝撃からロードレースの世界から去ることを決めました・・・。
しかし、フィオールの卓越したアルミニウム合金シャシー製作技術を、世の中が放っておくことはありませんでした。その後彼はルノーに請われてスパイダーのアルミシャシーを試作。彼が作ったルノーのシングルシーターは、ルノーの若いドライバー養成プログラムを助けることになりました。
そしてロードレース界は去ったものの、フィオールはアプリリアの公道用モデルの試作作りには協力。またフィオールは昔から好きだった超軽量動力機の製作や、自分で飛行機を操縦しての旅を楽しむことに没頭します。これらの活動をとおしてフィオールは、最も愛したロードレースから去ったことの、喪失感の埋め合わせに励んだのかもしれません・・・。
2001年の12月13日、フィオールはパリから地元ノガロへ帰る飛行機を操縦していましたが、トラブルによりノガロ近郊へ墜落・・・。46歳という若さで、この世を去ることになりました。
1988年シーズンに向け、準備に励むフィオールチームをおさめた動画です
最後にご紹介するのは、1988年シーズン、新スポンサーを迎えてフィオール-マールボロとなったフィオールのチームの、シーズン前の動画です。5分35秒の非常に貴重なムービーなので、ぜひご覧になってください。