国内外の各メディアの既報どおり、5月22日にニッキー・ヘイデンが逝去しました。2006年にアメリカ人7人目のGP最高峰王者となったニッキーは、「ザ・ケンタッキー・キッド」の愛称とともに、多くのモータースポーツファンに愛されました。

2006年、最後の990cc時代のMotoGP王者に逆転で輝く

ニッキー(=ニコラス・パトリック・ヘイデン)は1981年6月30日、アメリカ・ケンタッキー州オーエンズボロの、モーターサイクル好きの家庭に生まれました。彼が好んでつけた「69」の車番は、かつて父のアールが使用していたナンバーでした。

アメリカのCMRA(セントラル・モーターサイクル・ロードレーシング・アソシエーション)でレースを始めたニッキーは、まだ17歳(高校生)ながらファクトリー・ホンダのRVF/RC45に乗るチャンスを得るなど将来を嘱望されたアスリートでした。

1999年はプライベーターでホンダに乗りAMAスーパースポーツ選手権を制覇。2001年からはAMAスーパーバイク選手権にフル参戦を開始。2002年には栄誉あるデイトナ200優勝を達成するとともに、史上最年少のAMAスーパーバイク王者に輝きました。

AMA育ちのアメリカンライダーたちの例に漏れず、ニッキーもフラットトラック競技で大活躍したライダーのひとりでした。

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2003年からはレプソルホンダに加入。チームメイトのバレンティーノ・ロッシとともにホンダファクトリーのRC211V(水冷4ストロークV型5気筒990cc)を駆り、初年度は2度3位表彰台を獲得。ランキング5位でルーキー・オブ・ザ・イヤーとなりました。

MotoGP時代のキャリアのハイライトは2006年。かつてのチームメイトでヤマハに在籍していたロッシを相手に、シーズン終盤まで僅差のタイトル争いを展開します。レプソルホンダのエースとなったニッキーのこの年の優勝はオランダとアメリカの2勝にとどまりましたが、リタイアはわずか1度という高い完走率で着実にポイントを稼ぎました。

その唯一のリタイアは最終戦ひとつ前のラウンドである第16戦ポルトガルでした。このノーポイントが響き、ニッキーはロッシにランキングで逆転されましたが、なんと最終戦バレンシアではロッシが転倒リタイア。一方ニッキーは3位で走りきり、再逆転でMotoGP王者になったのです。

2006年MotoGP最終戦(バレンシア)終了後、感極まって男泣きするニッキー。すべてのモータースポーツファンが、感動した名シーンです。

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もっと貴方の走りが見たかった・・・

2007、2008年はV4・800ccとなったRC212Vで、レプソルホンダから参戦。2009年からはドゥカティファクトリー、ホンダ・サテライトチームでMotoGPクラスでの戦いを続けました。2016年からは舞台をSBK(世界スーパーバイク選手権)に移し、2016年にはSBK初勝利をマレーシア(セパン)で記録しました。また第39回鈴鹿8耐にも参戦。残念ながらリタイアという結果でしたが、多くのファンの注目を集め、その年の8耐を盛り上げてくれました。

画像: 2016年、雨のSBKマレーシアラウンドで、トップチーム相手には戦闘力の劣るホンダCBR1000RRで勝利したニッキー。2017年も引き続き、SBKでの戦いを続けていました・・・。 www.motoamerica.com

2016年、雨のSBKマレーシアラウンドで、トップチーム相手には戦闘力の劣るホンダCBR1000RRで勝利したニッキー。2017年も引き続き、SBKでの戦いを続けていました・・・。

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2017年も前年同様にSBKにホンダで参戦。新型CBR1000RRを得て、前年以上の活躍が期待されましたが・・・5月17日にイタリア・リミニ近郊でサイクリング・トレーニング中に自動車事故に遭い、35歳でこの世を去ることになってしまいました。今年の第40回記念大会の鈴鹿8耐で、昨年のリベンジを期待したファンも多かったと思いますが、それもかなわぬ願いとなりました・・・。

その誠実な人柄と、ガッツあるレーススタイルから、レーストラックの内外で多くの人に愛されたニッキー・・・ありがとう、そしてさようなら・・・。

画像: ww4.hdnux.com
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