80年代終わりに、空冷4気筒の大排気量二輪車に乗ったライダーが夜な夜な集まる場所があった。 それが東京と横浜を結ぶ、第三京浜道路。世田谷の玉川インターチェンジから、神奈川県横浜市の 保土ヶ谷インターチェンジまでの16.6Km。
大きく回りこむようなカーブのない自動車専用の一般道路だ。そこを走るライダーが集まる場所が、横浜に向かう下り線の保土ヶ谷料金所を出てすぐにあった、保土ヶ谷パーキングだった。 特別、人を惹きつける施設ではない、駐車場もそれほど大きくない、いたって普通のパーキングエリアだ。だけど、この時代、この場所が集まってくるライダーによってヒートアップした。

オートバイ 2016年6月号別冊付録RIDE「熱狂最前線 にいた男たち」より:
聞き手/文:濱矢文夫 写真:赤松 孝/イエローコーン デジタル編集:楠雅彦@ロレンス編集部

そのムーブメントを仕掛けたひとりが、バイクアパレルブランド、 イエローコーンの代表取締役、杉田均さんだ。「僕は70年代、ハタチぐらいの時から第三京浜を走っていたんです。 クルマは少ないし、道は綺麗だったし、飛ばせましたね」

数多くの著名服飾デザイナーを輩出した文化服装学院に通うために大阪から上京。イエローコーン の基盤となる、2つの大きな要素 ――そのひとつである『ファッション』はそこで培った。一方、もうひとつの大事な要素が、『バイク』だった。

画像: 第三京浜というムーブメントを語るときに、 欠かせない存在なのが、ライディングアパレルメーカーの イエローコーンだ。 いやむしろ、その仕掛け人こそが、 代表の杉田さんだった!!

第三京浜というムーブメントを語るときに、 欠かせない存在なのが、ライディングアパレルメーカーの イエローコーンだ。
いやむしろ、その仕掛け人こそが、 代表の杉田さんだった!!

イエローコーンが誕生したのは1987年。洋服とバイクを一緒にしたものをやろうというのがコンセプト・・・根幹にあった。両方のノウハウはたっぷり持っている。そこで注目したのは仲間たちと走り慣れているこの第三京浜だ。

「思いついた時は絶対にイケルって思いましたね。自信というか確信があった。世の中みんなが盛り上がろうとしていたよね。バブル景気のおかげで大きなお金を借りられたからイエローコーンを始めることができた。それで、これをどうしても成功させるためにプロモーションのひとつとして第三京浜を使ったんです」

毎週のようにイエローコーンでフルチューンしたカワサキに仲間たち乗って走りに出かけた。フルカスタムされた目立つバイクが疾走する。仲間が集まって走る。 仲間が仲間を呼ぶ。次第に、人づてに噂が広まっていき、遠方からも大排気量車を改造して速く走ることが好きなバイク乗りが集まるようになっていった。

第三京浜を盛り上げるため、いろいろな仕掛けもした。そのひとつに、二輪専門誌に第三京浜の熱狂を取材してもらうことがあった。 杉田さんたちイエローコーンは 創業した年から4年の間、暑い日も寒い日も毎週、第三京浜に通った。

「大きな声で言えないようなバトルがいっぱいありましたね。勝負を挑まれたり。アンチイエローコーンが出てきたり。でも、うちには良いメカニックと良いライダーがいましたから、第三京浜という舞台では負けませんでしたね。」

「人が集まるところには集まりたくなって、何もなくても行きたくなる。行かないと時代に、流行に遅れていく感じがする。それが本能でしょ。それが第三京浜だった」

画像: 「 極端な話ですが、僕にとって日本のバイクっていえばZなんです。 Zが終わったらニンジャですね、 Zが終わったらカタナですねという話もありますが、個人的にZが終わってもZなんですよ、他のものとは代えられない。」(杉田氏談)

「 極端な話ですが、僕にとって日本のバイクっていえばZなんです。 Zが終わったらニンジャですね、 Zが終わったらカタナですねという話もありますが、個人的にZが終わってもZなんですよ、他のものとは代えられない。」(杉田氏談)

画像: 「何もなくても行きたくなる。行かないと時代に、流行に遅れていく感じがする。それが本能でしょ。それが第三京浜だった」(杉田氏談)

「何もなくても行きたくなる。行かないと時代に、流行に遅れていく感じがする。それが本能でしょ。それが第三京浜だった」(杉田氏談)

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