予告なく訪れたきっかけを手にして日常を捨ててしまった男女

忘年会シーズンもそろそろ終り。クリスマスも過ぎ、酒や煙草の匂いに辟易している方も多いのではないか?
年末の東京は、タクシーを停めるのに一苦労する混雑ぶりだが、正月になれば一気に車は減り、澄み切った青空と、冷えて凛とした空気を味わうことができるだろう。

今回ご紹介するのは、東本昌平先生の短編集『RIDER』(モーターマガジン社)の一編。「BLUE HEART ROCKET BOY ON RED ROSE SPEEDWAY」だ。
主人公奥田吾郎は29歳のサラリーマンなのだが、宴席の”オヤジたち”がもたらす空気の中で、我慢するでもなく同調するでもなく座っている自分自身に、嫌気を感じながらも、ただそこにいた。
たまたま隣に座った店の女は、若いが美人というわけでもなく、特に惹かれるものはなかったのだが、すぐにモノにできそうな雰囲気に流され、思わず「二人でフケようか」と誘う。

©東本昌平先生/モーターマガジン社

目的のない逃避行の中で見つけた一台の朽ちかけたオートバイ

なぜか二つ返事で同意した女とともにその場を離れ、ともに仕事を捨てて列車に乗り込んだ二人は、欲望のままに体を重ね、ひなびた街の旅館にしけ込む。何かをするわけでもなく、ただひたすら互いのカラダを求めあい、食っては寝て、またむさぼるように抱き合った。

あっという間に無くなった避妊具を買いに出ようと外に出た吾郎は、旅館の横に置いてあった一台のバイクに目を停める。それは放置されて久しく、旅館の女将からも「動かせるなら持っていってかまわない」と言われるほど、朽ちかけた一台だったが、なぜか彼は思い立って、そのバイクを直し始める。ここで初めて、彼は女のカラダを求める以外に、やるべきことを見つけるのだ。

そんな吾郎を眺めていた女だが、彼との意味も目的もない退廃した時間にそろそろ倦み始めていた。
彼女も吾郎と同じく、日常に嫌気がさしていたからこそ彼の誘いに乗った。吾郎との逃避行が何か自分を変えるきっかけになるかという淡い期待を持っていたのだが、それも結局妄想に過ぎなかったと感じ始めていたのである。

会社にも店にも何も言わずに、日常から逃げ出した形の二人だったが、吾郎より先に女は、とりあえず平凡な毎日へと戻る決意をして、旅館を一人後にするが、吾郎は修理し始めたバイクを動かすことに執着していた。自分自身の姿をそのバイクに重ね合わせていた、のかもしれない。

何も事態は好転していないけれど、エンジンがかかったことだけは間違いがない

自分を置いて、先に東京へ戻っていった女とは、ほんの何週間か前に出会ったばかりだし、特に一目惚れをしたようなわけでもなかった。ただ互いのカラダを貪っただけだ。
なのだが、心の重ねあいよりもカラダの重ねあいが、忘れがたい強い感情を揺り起こすことは珍しくない。
それはちょうど吾郎が一心に修理をして、10年以上の長い年月を超えて蘇ったオートバイのエンジンが、彼の空虚な胸の内に 強い情熱を呼び起こしたことに似ている。

日常からドロップアウトした吾郎は、何かを再びし始めようという目的を持ったわけではなかったが、小気味いい音を奏でて蘇ったオートバイにまたがり、女を追いかけようと思い立つ。

寒空を飛ばし、東京に戻った吾郎は、新橋駅で女を見つける。
女もバイクとともに苦笑いを浮かべる彼の姿に、思わず笑みをこぼす。オートバイとともに現れた男の姿に、これ以上何も起きない、と諦めかけていたはずの女の心に”何か”が芽生えたのだ。
愛というより馴れ合い、恋というより情なのかもしれないが、二人の男女の間には、オートバイとともに一つの離れがたい絆が生まれているのだ。

二人の男と女がこれからどう生きていくのはわからない。
ただ分かっているのは、心の中のプラグが火花を散らし、そしてエンジンはかかった、ということだけだ。

そして、若者にとってはそれで十分なのである。