世界ロードレースGP(現MotoGP)の世界で、パーソナルナンバーの先駆となったのは、1976、1977年500ccクラス王者になった英国のバリー・シーンですが、彼のあとにGPでパーソナルナンバーにこだわったライダーは、アメリカンライダーのケビン・シュワンツでした。ところで彼が愛用した「34」番ですが、なぜシュワンツは「34」番に執着したのかみなさんはご存知でしょうか?

AMAの文化・・・ナショナルナンバー

前年度の王者が、翌年のゼッケン「1」をつけるというGPの風習を変化させる流れを作ったのは、スズキ時代にGP500ccクラスで1976、1977年王者に輝いたバリー・シーンでした。

そんなバリー・シーンの引退した1984年シーズンの2年後・・・1986年のダッチTTでGPデビューを果たしたのがアメリカンライダーのケビン・シュワンツです。1988年からフル参戦を開始したシュワンツは、開幕戦の日本GPで見事GP初優勝を記録。久しく最高峰王者の座から遠のいているスズキのマシンを駆り、チャンピオン争いに絡む卓越したパフォーマンスを披露したシュワンツは、瞬く間にGPのスターライダーとなりました。

画像: 1989年の英国GP(ドニントンパーク)500ccクラスで優勝したK.シュワンツ(スズキ)。当時はまだ、黄色地の黒文字のゼッケンが500ccクラスに義務つけされていた時代でした。 en.wikipedia.org

1989年の英国GP(ドニントンパーク)500ccクラスで優勝したK.シュワンツ(スズキ)。当時はまだ、黄色地の黒文字のゼッケンが500ccクラスに義務つけされていた時代でした。

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彼はGPキャリアのほとんどの期間、愛機スズキRGV-Γに「34」番のゼッケンを使用しました。この番号をパーソナルナンバーとして背景には、彼の出身地であるアメリカのモータースポーツを統括するAMAの文化がありました。

AMAでは長らく、ナショナルナンバーという制度を用いています。AMAでチャンピオンとなったライダーは王者の証として翌年度シーズンにゼッケン「1」を装着しますが、それまでは個別に与えられたナショナルナンバーを基本使い続けることになります。

GPへ羽ばたく前の頃・・・AMA時代のシュワンツはナショナルナンバー「34」を付けていました。そして譲り受けた「34」の前の持ち主は、シュワンツの叔父のダリル・ハーストでした。

師匠でもある叔父から譲り受けた、大事な「34」番

ケビン・シュワンツの父であるジムは2輪専門店を経営しており、幼少期のシュワンツは父からバイクの乗り方の手ほどきを受けました。やがて少年ケビンはトライアル、モトクロスを楽しむようになりますが、そのときの先生役になったのがハースト・ヤマハ・アンド・マリンを経営し、1970年代のAMAフラットトラックで活躍したダリル・ハーストでした。

画像: 少年時代のK.シュワンツのレザースーツ。叔父であるダリル・ハーストの店が、レースの活動の拠点でした。 www.americanflattrack.com

少年時代のK.シュワンツのレザースーツ。叔父であるダリル・ハーストの店が、レースの活動の拠点でした。

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1983年のヒューストン・スーパークロスで負傷したシュワンツは、モトクロスのキャリアに終止符を打つことを決めました。そして1984年の終わりに、ロードレース選手としてヨシムラ・スズキのライダーに起用されるチャンスを掴みます。

画像: 1986年、アスコットパークでのAMAフラットトラックレースで、有力チームであるバーテルズのハーレーダビッドソンXR750に乗るK.シュワンツ(中央)。そのライディングフォームに、シュワンツらしさを感じさせます。 www.americanflattrack.com

1986年、アスコットパークでのAMAフラットトラックレースで、有力チームであるバーテルズのハーレーダビッドソンXR750に乗るK.シュワンツ(中央)。そのライディングフォームに、シュワンツらしさを感じさせます。

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1985〜1987年にAMAスーパーバイクでスズキライダーとして活躍したシュワンツは、1988年春に伝統のデイトナ200マイルで勝利!! そしてこの年から世界ロードレースGP500ccクラスに、スズキワークスライダーとしてフル参戦することになりました。

師であり、敬愛する叔父であるダリル・ハーストから譲り受けた愛着ある番号・・・。そんな「34」番をシュワンツは、世界最高峰のGPの舞台でも愛用し続けたわけです。

王者を獲得した1993年の翌年、1994年には栄光のゼッケン「1」を使用しました

GPフル参戦デビュー年の1988年、2勝したシュワンツは500ccクラスのランキング8位を獲得。1989年は6勝を記録するものの、6度のDNFがたたり同4位・・・。そして1990年は5勝を記録するものの、AMA時代から好敵手だったウェイン・レイニー(ヤマハ)にタイトルを奪われ、同2位に甘んじました。

1991年は5勝するも同3位、1992年はわずか1勝で同4位に後退・・・。速さでは1990年から3連覇という偉業を残したレイニーに引けを取らないものの、シュワンツは確実性には劣る・・・そんな評価をうそぶく人々が、当時の大勢でした。

画像: 1994年英国GPで優勝した、ゼッケン1のスズキRGV-Γを駆るK.シュワンツ。この勝利は、通算25勝目となる彼のGPキャリア最後の優勝でした・・・。 www.motogp.com

1994年英国GPで優勝した、ゼッケン1のスズキRGV-Γを駆るK.シュワンツ。この勝利は、通算25勝目となる彼のGPキャリア最後の優勝でした・・・。

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そして1993年・・・第11戦チェコGPまでレイニー4勝・シュワンツ4勝で迎えた運命の第12戦イタリアGP・・・。このレースでキャリアを終焉させる大怪我をレイニーが負ったこともあり、複雑な想いを抱えたままシュワンツはこの年の最高峰クラス王者になりました。

最高のライバルであるレイニーが引退した後の1994年、シュワンツはそれまでこだわって使い続けた「34」番ではなく、チャンピオンを証である「1」番を車体3面に貼りました(フロントの白ヌキの「1」の中には「34」が記されたりしていましたが)。

画像: 1994年シーズンのK.シュワンツ。フロントフェアリング前面の「1」の中に、小さく「34」が記されているのがわかります。 www.pinterest.jp

1994年シーズンのK.シュワンツ。フロントフェアリング前面の「1」の中に、小さく「34」が記されているのがわかります。

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シュワンツの話からは外れますが、21世紀になり・・・パーソナルナンバーが当たり前になった時代に、日本の某ワークスチームのスタッフに「自分たちの優勝したマシンに、ゼッケン"1"が貼られないことって、やっぱり悲しいのですか?」と私はお聞きしたことがあります。

返ってきた答えは、今はそういう時代・・・ということに納得しつつも、やっぱりチャンピオンマシンの証の「1」を付けて欲しいという想いはある・・・というものでした。

私は今までケビン・シュワンツにお会いしてお話したことは1度しかなく、他愛もない会話を2、3言しか交わしたことしかないため、1994年当時に「34」ではなく「1」を付けた理由はわかりません。もし理由を問う機会があったら、きっと返ってくる答えはこういうものではないかと・・・勝手に想像したりしています。

王者として「1」を付けることは自分を支えたチームやスポンサーのため、そして戦ってきたライバルたちへの敬意を表明するため、と答えるのではないかと・・・。

画像: Kevin Schwantz 34 youtu.be

Kevin Schwantz 34

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