ケンタッキーキッドの愛称とともに、多くのファンに愛されたライダー
ニッキー(=ニコラス・パトリック・ヘイデン)は1981年6月30日、アメリカ・ケンタッキー州オーエンズボロの、モーターサイクル好きの家庭に生まれました。彼が好んでつけた「69」の車番は、かつて彼の父であるアールが使用していたナンバーでした。
アメリカのCMRA(セントラル・モーターサイクル・ロードレーシング・アソシエーション)でレースを始めたニッキーは、高校生ながらファクトリー・ホンダのRVF/RC45に乗るチャンスを得るなど、将来を嘱望されたライダーでした。1999年はプライベーターでホンダに乗りAMAスーパースポーツ選手権を制覇。2001年からはAMAスーパーバイク選手権にフル参戦を開始。2002年にはアメリカで最もプレミアムなイベントであるデイトナ200優勝を達成するとともに、史上最年少のAMAスーパーバイク王者に輝きました。
そして2003年からはレプソルホンダに加入。チームメイトのバレンティーノ・ロッシとともにホンダファクトリーのRC211V(水冷4ストロークV型5気筒990cc)を駆り、2度3位表彰台を獲得。ランキング5位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得しています。
2004年度も3位表彰台が2度(ランキング8位)・・・と、なかなか初勝利に手が届かずにいたヘイデンですが、2005年度の第8戦アメリカGPで地元のファンに初勝利をプレゼント! この年のランキングは3位まで上昇しました。
990cc時代最後のMotoGP王者に輝く
先日のフランスGP・MotoGPクラス優勝(マルク・マルケス)でホンダは1966年の初参戦以来から積み上げてきたGP最高峰クラス(500cc・MotoGP)での勝ち星が300に達しましたが、その道程の途中の「200」勝目は、ヘイデンが2006年のオランダGPで記録したものでした。
2006年シーズンは、かつてのチームメイトで当時ヤマハに在籍していたV.ロッシを相手に、シーズン終盤まで僅差のタイトル争いを展開します。レプソルホンダのエースとなったニッキーのこの年の優勝は先述のオランダと、アメリカの2勝にとどまりましたが、リタイアはわずか1度という高い完走率で着実にポイントを稼ぎました。
この年唯一のリタイアは、最終戦ひとつ前のラウンドである第16戦ポルトガル・・・。このときのノーポイントが響き、ニッキーはロッシにランキングで逆転されてしまいました。しかし最終戦バレンシアでは、なんとロッシが転倒リタイア。一方ニッキーは3位でゴールまで走りきり、見事な再逆転でMotoGP王者に輝いたのです!
その後2009年からはドゥカティライダーとして、そして2014年からは再びホンダライダーとしてMotoGPを走ったヘイデンは、2016年以降はSBK(世界スーパーバイク選手権)に転向。初年度は、マレーシアラウンドのレース2で、キャリア初のSBK勝利をホンダCBR1000RRで記録しました(ランキングは5位)。
2017年以降も、SBKや鈴鹿8耐でのヘイデンの活躍を、多くのファンは期待しました。しかしイタリア(イモラ)で開催された2017年のSBK第5戦後、ヘイデンはリミニ近郊で自転車トレーニング中に自動車との接触事故に遭い、地元の病院に緊急搬送されることに・・・。
その後、リミニ近郊の病院からチェゼーナにあるマウリツィオ・ブファリニ病院の集中治療室にヘイデンは移されましたが、懸命の治療も虚しく5月22日19時9分に35歳の若さでこの世を去ってしまったのです・・・。
Tribute to the 'Kentucky Kid' at Hayden's Hill ✨
— MotoGP™ (@MotoGP) 2019年4月13日
Nicky Hayden's loved ones and the #MotoGP family were reunited at Hayden's Hill at @COTA to pay a tribute to the #MotoGP Legend on the day his number 69 was retired from premier class racing #RideOnKentuckyKid pic.twitter.com/gDQyOxvAkU
今年1月、ドルナスポーツはヘイデンのパーソナルナンバーである「69」番をプレミアクラスの永久欠番に指定。そのセレモニーを、4月にアメリカズGPの舞台となるCOTA(サーキット・オブ・ジ・アメリカズ)で行いました。このCOTAのターン18は、「ヘイデン・ヒル」と名付けられております。