1989年、125ccチャンピオンに輝く!!
1970年にスペイン・バルセロナに生まれたクリビーレは、1985年からロードレースのキャリアをスタートさせます。そして雑誌「ソロ・モト」主催の国内レースなどで活躍したクリビーレの才能は、スペインの名門であるデルビに注目されます。
欧州選手権でも活躍したクリビーレは、1987年の開幕戦スペインGP80ccクラスで2位という、見事なGPデビューを飾りました。1988年はデルビで80ccクラス年間2位、そして125ccはヒュンメルで同31位を記録。1989年はスペインの名コンストラクター、JJコバスに所属して125ccクラスに参戦。年間5勝をマークし、見事自身初のGPタイトルを手中におさめました!
スペイン人ライダー初の500ccクラス勝利を1992年に記録!
1990年はマールボロ・ヤマハ、そして1991年はJJコバスで250ccクラスを戦いますが、1990年は年間11位、1991年は同13位と、パッとしない成績に終わりました。両年とも主にマシンの戦闘力不足が不振の原因でしたが、幸運にも彼は1992年からシト・ポンス率いるホンダのサテライトチーム、サンプサ-ポンス・ホンダから、最高峰500ccクラスのシートを与えられることになりました!
500ccクラスルーキーのクリビーレは、なんと3戦目のマレーシアGPで3位表彰台を獲得! そして第8戦のオランダGPでは、初の500ccクラス優勝を達成します! この勝利は、スペイン人ライダー初の最高峰クラスでの勝利となる偉業でした。
ドゥーハンらライバルたちとしのぎを削る!
500ccクラスでの適正を見せたクリビーレは、1993年もポンスのチーム・・・マールボロ-ポンス・ホンダで参戦。この年は未勝利でしたが、スペインとオランダで3位表彰台を獲得するなど活躍し、前年同様年間8位の成績を残します。そして1994年からはついにHRC入りを果たし、クリビーレはミック・ドゥーハンと伊藤真一のチームメイトとして500ccクラスを戦うことになりました。
1994年は3位表彰台を3度獲得し、アメリカGP以外はすべてシングルフィニッシュで年間6位。翌1995年からワークスチーム名は現在に至るレプソル・ホンダとなり、クリビーレは最終戦ヨーロッパGPで優勝を飾るなどの活躍で、年間4位までランキングを上げることになりました。
1996年は2勝をマークし、ランキング2位を獲得。最終戦のオーストラリアGP(イースタンクリーク)ではドゥーハンと接触リタイアという結果になり、チームメイト同士ながら激しいライバル関係を周囲にも意識させることになりました。
1999年、ついにスペイン人初の最高峰王者に輝く!
1997年はマレーシア、日本GPの開幕2戦を2位、第3戦スペインで優勝と順調な出だしでしたが、第7戦オランダGP以降の5戦を負傷欠場することになります。最終戦オーストラリアGPは優勝するものの、年間ランキングは4位に後退。1998年は2勝をマークするものの、チームメイトのドゥーハンだけでなく、サテライトのマールボロ・チーム・カネモトのNSR500に乗るマックス・ビアッジにもランキング争いにも敗れ、年間3位となりました。
チームメイトの絶対王者、ドゥーハンの存在がクリビーレを王座につくことから遠ざける状況が続きましたが、1999年はドゥーハンが引退に追い込まれる負傷で欠場した第3戦からのレースで、クリビーレは6勝を記録。ついにスペイン人初の500ccチャンピオンという、スペイン人ファンの悲願を達成しました!
その後、2000年、2001年とクリビーレは年間9位および8位と低迷。そして2002年は、ルイス・ダンティンのアンテナ3ヤマハに移籍することを発表してレースファンを驚かせました。しかし、その2年前から体調不良だったことを明かし、クリビーレは2002年シーズン前に引退を表明しました。
現在のMotoGPは、マルク・マルケスらスペイン人ライダーの活躍が当たり前となって久しいですが、1980年代までは軽量級クラスしかスペイン人ライダーは活躍できない、と声高に主張する人が珍しくない時代でした。そんな風評が無根拠のものであることを、自らのキャリアで実証したクリビーレは、すべてのスペイン人にとっての英雄でしょう。
下の動画は、1999年カタルニアGP500ccクラス、最終周の岡田忠之とクリビーレのバトルをおさめたものです。地元ファンの熱狂ぶりに、当時のクリビーレ人気を認識させられます。なおクリビーレがホンダにプレゼントした勝利数は通算15勝で、すべてNSR500とのコンビによるものです。