1949年からの世界ロードレースGP(現MotoGP)の歴史のなかでは、僅差の1点差、または同ポイントでタイトルの行方が決まったシーズンが幾度かありました。今回はふたりのGPレジェンド、マイク・ヘイルウッドとジャコモ・アゴスチーニが戦った1967年500ccクラスを紹介します。

王者MVに最高峰クラスで挑んだホンダ

1966年よりホンダはグランプリ最高峰の500ccクラスへの挑戦を開始しました。当時のホンダはCB450(空冷4ストローク並列2気筒DOHC2バルブ)を発売したばかりで、これがホンダとしては初の大型スポーツモデルでした。

1959年に世界ロードレースGPへ挑戦を開始したころのホンダは50〜305ccが商品レンジだったこともあり、宣伝効果を考慮して50〜350ccクラスには力を入れましたが当時最高峰の500ccクラスにチャレンジするのは1960年代ワークス活動第1期の後半をすぎてからだったのです。

1966年、ホンダは500ccクラスのエース格として、長年チームリーダーとして貢献したジム・レッドマンを起用しました。250、350ccクラスでホンダに乗り計6度もタイトルを獲得したレッドマンにとって、最高峰500ccクラスの王座はぜひとも欲しいものでした。

実戦投入された初のホンダGP500ccマシン、RC181を得たレッドマンは1966年500ccクラスの開幕戦の西ドイツGPと2戦目のダッチTTを連勝します。しかし続くベルギーGPでは雨のコンディションで転倒を喫します。その時おった怪我が原因で、結果的にレッドマンは引退に追い込まれることになりました。

画像: 1966年型ホンダRC181を駆るJ.レッドマン。同年の350ccクラスを走った350cc4気筒車(RC173)と上部エンジンハンガー以外はほぼ同じ車体に、84馬力を誇る空冷4ストローク4気筒DOHC4バルブエンジンを搭載していました。 motovue.net

1966年型ホンダRC181を駆るJ.レッドマン。同年の350ccクラスを走った350cc4気筒車(RC173)と上部エンジンハンガー以外はほぼ同じ車体に、84馬力を誇る空冷4ストローク4気筒DOHC4バルブエンジンを搭載していました。

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すべてのレースを二人が勝利・・・そして有効ポイントは同点・・・

その後ホンダ初の500ccタイトル獲得というミッションは、天才ライダーのマイク・ヘイルウッドひとりが担うことになりました。ヘイルウッドはRC181に乗りチェコスロバキア、アルスター、マン島TTで3勝をマークしますが、ライダータイトルは同じく3勝のアゴスチーニとMV3気筒が獲得しました。

シーズン序盤のレッドマンの2勝もあり、メーカータイトルはホンダが獲得することになりましたが、あくまでグランプリはメーカータイトルよりライダータイトルのほうが重要なのは、いつの時代も変わらないことです。翌1967年はシーズン開幕から、ヘイルウッド対アゴスチーニが1対1のバトルを毎戦展開することになりました。

1967年マン島TTセニア(500cc)クラスを走るM.ヘイルウッドと2RC181。この時ヘイルウッドが記録した平均時速108.77マイル≒174km/hは、8年後の1975年まで破られることのないスーパーラップでした。

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画像: 左がG.アゴスチーニ、右がM.ヘイルウッド。かつてヘイルウッドはMVアグスタのエースとして500ccクラス王者になりましたが、後にチームメイトとして加入したイタリア人のアゴスチーニを優先するMVの方針に次第に嫌気がさすようになります。そして1965年最終戦日本GP(鈴鹿サーキット)350ccクラスの優勝を最後にMVを離脱。同レースの250ccクラスでホンダに乗り優勝し、ホンダ移籍後の初勝利を記録しています。 f1retro.gr

左がG.アゴスチーニ、右がM.ヘイルウッド。かつてヘイルウッドはMVアグスタのエースとして500ccクラス王者になりましたが、後にチームメイトとして加入したイタリア人のアゴスチーニを優先するMVの方針に次第に嫌気がさすようになります。そして1965年最終戦日本GP(鈴鹿サーキット)350ccクラスの優勝を最後にMVを離脱。同レースの250ccクラスでホンダに乗り優勝し、ホンダ移籍後の初勝利を記録しています。

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1967年マン島TTセニア(500cc)クラスでスタートするG.アゴスチーニとMV3気筒。最高出力ではホンダ4気筒に劣っていたMV3気筒ですが、ハンドリングの良さでははるかにホンダに勝り、それを武器にアゴスチーニは戦いました。

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記事タイトルに使っている「フレディとケニー・・・」ですが1983年の最高峰500ccクラスはすべてのレースをフレディー・スペンサー(ホンダ)とケニー・ロバーツ(ヤマハ)のいずれかが勝利し、わずか2ポイント差で栄冠がスペンサーのものになりました。

一方1967年のジャコモとマイクの戦いは・・・こちらも全10戦を二人のいずれかが勝利しました(ともに5勝)。そしてポイントは当時の有効ポイント制(6つのベストリザルトのポイントを加算)で、同点の46点・・・。勝敗を決したのは総獲得点・・・アゴスチーニ58点に対し、ヘイルウッド52点。ライダー/メーカータイトルともに、アゴスチーニとMVアグスタのものになったのです。

ヘイルウッドはRC181のハンドリングを評し「ラクダ」と当時述べました。またRC181系はそのモデルライフを通して信頼性に問題があり、どれだけパワーに勝ろうともMV3気筒の軽量さと優れたハンドリングに屈することになったといえるでしょう。

この年を限りにホンダは第1期ワークス活動を停止・・・。ホンダは最高峰クラスのライダータイトル獲得を、先述の1983年まで待つことになってしまうのです。

こちらの動画は、1967年マン島TTセニア(500cc)クラスの記録映像です。このレースはアゴスチーニがリタイア、一方ヘイルウッドが優勝・・・という展開になりました。

画像: Senior T. T. Race (1967) youtu.be

Senior T. T. Race (1967)

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