1949年からの世界ロードレースGP(現MotoGP)の歴史のなかでは、僅差の1点差、または同ポイントでタイトルの行方が決まったシーズンが幾度かありました。今回はGPキャリア通算1勝! にもかかわらず、市販レーサーでフランス人初の王者にジャン-ルイ・トゥルナドルを紹介します。
カワサキKR250の支配に、風穴を開けたライダー
1980年前後の時代は、パトリック・ポンス、エリック・ソール、ミシェル・ルージェリー、クリスチャン・サロンなど、優秀なフランス人ライダーが多数ロードレースで活躍しました。トゥルナドルはそんなライダーのひとりであり、1979年にフランス国内の750ccクラス王者になった男です。
1980年からは世界ロードレースGPへの参戦を開始。翌1981年からは250ccクラスに専心し、ランキング7位という成績をおさめました。当時の250ccクラスは、最強のカワサキKR250を駆るファクトリーライダー対ヤマハTZ250を使う(*エンジンのみ、も含む)多くのプライベーター勢&ロータックスエンジン車のプライベーター勢・・・という状況でした。なお1981年のタイトルはアントン・マンク(カワサキ)が獲得し、シーズン10勝という圧倒的強さをライバルたちに見せつけました。
続く1982年シーズンは波乱の幕開けとなります。初戦のフランスGP(ノガロ)は安全性が確保されていないというクレームがトップライダーたちからつけられ、メーカー系有力ライダーが軒並み決勝をボイコットするという事態に発展したのです。
マンクや、ファクトリーサポートのカルロス・ラバード(ヤマハ)が欠場した250ccクラス決勝で、トゥルナドルは生涯唯一のGP勝利を記録します。有力ライダーたちを欠くレースだったこともあり、このトゥルナドルの勝利を「フロック」と見る者もいました。しかし、この後トゥルナドルは実にクレバーなレース運びを各戦で披露し、そんな風評を吹き飛ばすことになるのです。
クレバーなレース運びで、見事1点差でタイトルを獲得!
第2戦スペインでは、ラバードとマンクの間の2位に入賞。第3戦ネーションズ(イタリア)GPでは優勝のマンクとMBAのローランド・フレイモンドに次ぐ3位表彰台を獲得。第4戦ダッチTTでは優勝のマンクに食らいついて2.45秒遅れの2位表彰台を手中におさめました。
最悪でも7位完走・・・と最終戦までの全11レースを完走し、1勝・2位4回・3位3回という安定した成績をキープしたトゥルナドルは、最後の第12戦西ドイツGPでも冷静なレース運びを披露しました。ここまで最多の4勝を記録しているマンクが母国でのレースで5勝目をマークしたとしても、自分が4位に入ればポイント差1点で世界王者になれることをトゥルナドルは十分理解していました。
このようなケースで緊張してポジションキープに失敗する例も多々ありますが、トゥルナドルはきっちり青写真どおりに4位の座を守り抜き、250ccクラスでは1971年のフィル・リード(ヤマハ)以来となるプライベーターの王者となり、そしてフランス人初の王者となって、その名を歴史に刻むことになるのです。