今年第40回記念大会を迎える”コカ·コーラ"鈴鹿8耐。この、日本で最も有名なロードレースイベントに1度でも優勝することはすべてのライダーにとって大きな名誉でありますが、過去39大会の歴史のなかには1度ならず、複数回優勝したグレートライダーが存在します。この連載は、そんな8耐マルチ-タイム・ウィナーを紹介していきます。今回はヨシムラとホンダワークスで、鈴鹿8耐3勝を記録したマイク・ボールドウィンです!

ロードレーシングに魅了された青年時代

1955年、ボールドウィンはカリフォルニア州パサディナで生まれましたが、彼が7歳のときにワシントン州タコマへ、そしてその後、東海岸のコネチカット州ダリエンに引っ越すことになりました。彼が初めて2輪車に乗ったのは9歳のときで、それは芝刈り機のエンジンを流用したミニバイクでした。

14歳になってからは、ホンダ50ccにステップアップ。その後16歳までは、スズキやホダカのトレールバイクで、友達と森の中でライディングすることに熱中します。17歳のときにボールドウィンはカワサキ750SS(H2)を入手。その愛車に乗ってボールドウィンは、友人とともにニューヨークのロングアイランドにある、ブリッジハンプトンにオートバイのクラブ・レーシングを見学に行きました。

当時のAMA(アメリカのレース統括団体)のスターだったゲーリー・フィッシャーらの走りに魅了されたボールドウィンは、自分もロードレースをしてみたい、と強く思うようになりました。そして自分の愛車にゼッケンをつけて挑んだデビューレースで5位に入ると、彼はすっかりロードレースに没入するようになります。なお、当時彼の両親は息子がロードレースに出かけていることに気づかず、その辺のストリートを走っているものと思い込んでいたとのことです。

ボールドウィンは高校在学中の冬休み、カワサキのサービススクールに通いました。そして卒業後、自宅近くのカワサキディーラーに務めることになります。そこで知り合った顧客が、ボールドウィンのライダーとしての才能に惚れ込み、彼のために市販レーサーのヤマハTZ250とTA125を購入しました。

その数週間後、ボールドウィンはTZ250で初めてカナダのロードレースに参加します。そして彼はヤマハワークスのスティーブ・ベーカーを破って優勝し、多くの人を驚かせました。そのTZ250で、クラブレーシングで幾度も優勝を重ねるボールドウィンは、次第に注目を集めていくことになりました。

最初の鈴鹿8耐優勝はヨシムラで達成!

1970年代半ばには、AMAロードレース界でも目立つ存在となっていたボールドウィンの才能を、当時アメリカで活動していたヨシムラは高く評価しました。そして1978年の第1回鈴鹿8耐にウェス・クーリーのパートナーとして起用。欧州主体の耐久ロードレースの世界では全くの無名だったふたりのヤングアメリカンは、ホンダワークスのRCBをはじめとする強力なライバルたちを退け、見事初大会の優勝を手中におさめました。

画像: ヨシムラ・チューンのスズキGS1000で、1978年の第1回鈴鹿8耐を走るM.ボールドウィン。 www.suzukacircuit.jp

ヨシムラ・チューンのスズキGS1000で、1978年の第1回鈴鹿8耐を走るM.ボールドウィン。

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ホンダワークスライダーとしても活躍!

なお1978年にボールドウィンは、フォーミュラ750のカナダラウンドで、あの"キング・ケニー"ことK.ロバーツに約40秒もの大差をつけて勝利しています。そんな才能を放っておくメーカーはなかった・・・ということで、1979年にカワサキはワークスライダーの座を彼にオファーし、ボールドウィンもそれに応じました。

そして臨んだ1979年のデイトナでしたが、レースウィーク中の転倒でボールドウィンは鎖骨を骨折。メインイベントの200マイルレースは、予選不出走で最後尾からのスタートを強いられました。しかし、そんな苦境と肩の痛みに関わらずボールドウィンはKR750で4位という好成績を残しました。またAMAのスケジュールの合間に参戦した欧州でのアングロ-アメリカンマッチでも活躍。プライベーターとしてスズキRG500で出場した世界ロードレースGP500ccクラスでは、第5戦スペインGPで3位表彰台を獲得し、キング・ケニーの後継者最右翼として、その存在を知られることになりました。

ボールドウィンの才能を買ったホンダは、1980年から彼と契約を結びます。1979年のロードンでのAMAのレースで大怪我を負った彼は、1980年半ばまで静養を強いられましたが、残りのシーズンはフレディ・スペンサーのサポート役として働いています。

1981年、ボールドウィンは世界耐久選手権のワークスライダーとして、デビッド・アルダナとともに参戦。チームは不運につきまとわれタイトル獲得することはかないませんでしたが、ホンダにとって最も重要なレースである鈴鹿8耐は見事勝利し、ボールドウィン自身も通算2勝目をゲットしています。

画像: ホンダフランスの傭兵部隊として、この年の世界耐久選手権を戦ったM.ボールドウィン。ライバルの脱落にも助けられ、RS1000による鈴鹿8耐の勝利を手中におさめました。 www.suzukacircuit.jp

ホンダフランスの傭兵部隊として、この年の世界耐久選手権を戦ったM.ボールドウィン。ライバルの脱落にも助けられ、RS1000による鈴鹿8耐の勝利を手中におさめました。

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2001年にAMAの殿堂入りを果たす

1982年の鈴鹿8耐は木山賢吾と組み、予選2番手から決勝に挑みましたが、台風直撃の決勝ではわずか3周を記録して終えることになりました。1,000ccのTT-F1レギュレーションでは最後となる1983年の鈴鹿8耐は不出場。そして750ccのTT-F1レギュレーション初年度の1984年大会はホンダの新鋭機RS750で、AMAで活躍するフレッド・マーケルと組んで出場します。

最大のライバルは同門のレイモン・ロッシュ/ワイン・ガードナー組でしたが、ロッシュの転倒後はボールドウィン/マーケル組が優位にレースをリードし、見事優勝。ボールドウィンの鈴鹿8耐3勝という記録は、その後1992年まで最多勝記録として歴史に刻まれることになりました。

画像: 1984年、ホンダRS750を駆るM.ボールドウィン。なお、このとき彼は27歳でした。 www.suzukacircuit.jp

1984年、ホンダRS750を駆るM.ボールドウィン。なお、このとき彼は27歳でした。

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1978年、ヤマハTZ750に乗り最初のAMA F1王者となったボールドウィンは、ホンダワークス時代の1982年から1985年まで4年連続でAMA F1タイトルを獲得しています。AMA時代、F1で17勝、スーパーバイクで10勝と通算27勝したボールドウィンですが、そんな彼にようやく世界ロードレースGPのワークスライダーとしての地位がもたらされたのは、1986年になってからでした。

1985年、ボールドウィンは市販RS500を購入し、AMAでの活動の合間に欧州のGPに参戦。6度トップ10フィニッシュをし、年間ランキング11位を記録しました。そして1986年はヤマハに移籍し、世界ロードレースGP500ccクラスでYZR500を駆り3位表彰台を5度記録。年間ランキング4位という成績をおさめています。また同年の鈴鹿8耐は師匠のK.ロバーツと組んでヤマハYZF750に乗りますが、予選2位・決勝リタイアという結果に終わりました。

1987年は第3戦西ドイツGPで手首とかかとを骨折。その治療にシーズンをほとんどを費やし、残り3戦の段階でようやく復帰という散々な結果に終わりました(ランキング18位)。そしてヤマハからホンダに移籍した1988年を最後に、ボールドウィンはGPから引退(ランキング19位)。その後AMAのイベントに数戦参加しますが、1991年11月に2ブラザーズレーシングのマシンに乗り7位を記録したのが彼のキャリアの最後となりました。

引退後にボールドウィンはライディングスクールを営み、その後はスペクトロ・オイルの輸出業務を担当することになります。才能に恵まれながら、幾度も大怪我によって多くの時間を費やすことになってしまったのが、ボールドウィンがGPで際立った成績をおさめることができなかった原因と言えるでしょう。しかし鈴鹿8耐で3勝という記録は、彼の非凡な才能の何よりの証左を言えるのではないでしょうか? なお彼は、2001年にAMAの殿堂入りを果たしています。

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