無為な日常の中で再会したのは中学時代の秀才
高校を出て、東京の臨床検査技師の専門学校に通ってみたものの、ディスコで暴れ、雀荘で暴れ、学校でも喧嘩と、私は居場所を失い、東京の水が合わないことを痛感させられる毎日に疲れていた。
かといって、何かすることがあるわけでもなく、ナナハンをあてもなく走らせるか、近所をフラフラしているだけの、無為に時間を浪費しているだけ。自分は周囲の皆に嫌われている、そんな想いが私の脳裏から離れることはなく、どうにも孤立することから逃れられないでいたのだ。
毎日惰性で学校には行くものの、終電で帰ると、バスはなく、1時間かけて家まで歩いて帰る。
そんな繰り返しの中で、いつもの通り道に、深夜にもかかわらずいつも明かりがついている家があることに気がついた。そこは、中学時代の同級生のタケシの部屋だった。秀才で有名だったタケシは、遅くまで何をしているのか、気になったというか、他に何も気にすることがない私は、ふと、彼の部屋の窓を叩いてみたのだ。
最初、タケシは私のことがわからないかのようだったが、私は構わず彼の部屋に上がり込んだ。だって他にすることがない。
コーヒーを淹れてくれたタケシは、てっきり東大でも行っているのかと思っていたが、浪人して自宅で来年の大学受験に備えているところだという。まあ、でも当然のごとく県下一の進学校に入学した彼のことだから、次は楽勝だろうと聞くと、そうでもない、とタケシ。
聞けば彼は原付バイクで事故を起こし、記憶障害になってしまっている、暗記をすることができなくなってしまっている、というのだ。
励ましたつもりが邪魔をしていたのか・・・
そんな再会を果たしてからというもの、私は夜遅くに彼の部屋を訪れることが習慣になった。
暗記ができないというハンデを負いながら、勉強を続けているタケシに何か共感した、というよりも、日常になにも意味を見出せない自分にとって、タケシの大学合格を応援することが、自分がするべきことかのように感じていたのかもしれないし、頑張るタケシの姿をみることで、なにか安心できたのかもしれない。私といえば、せっかく通い始めた学校をいつ辞めようと考えているていたらくだったが、タケシが頑張っている、ということが私の心の支えになっていた、そしてせめて少しでも彼の役に立ちたい、そんな気分になっていたのだ。
しかし、そんな習慣も長くは続けることができなかった。
タケシの母親から私の家に苦情の電話があったのだ。
どうやら、息抜きにちょっとスカッとしろよと思いタケシに私がナナハンを貸したことが、彼女の不興を買ったということらしい。バイク事故で傷ついた息子にバイクを貸すとは何事か、ということか。やっぱり私は人に嫌われる。唯一の友達もあっさりと失ってしまうのも、私に問題があるということなのだろう。
新しいナナハンと共に現れた久しぶりの友
またすることがない日常に戻った私だったが、次の夏の終わりにタケシから電話があった。
大学に受かったこと、そしてなんとナナハンを買ったという。
久しぶりに会ったタケシは、新品のSUZUKI GS750とともに生き生きとした表情で私の前に現れた。
「俺のこと嫌ってたんじゃないのか?」私は一番気になっていたことを思わず口にしてしまったのだが、タケシは”なに言ってんの!”と笑った。お前に一番はじめにナナハンを見せにきたんだぜ、と。
その言葉に私は心の片隅にこびりついていた、なにか頑な塊が溶けてなくなるような想いを味わった。嫌われていなかった。そんな小さな発見が私を楽にさせてくれたのだ。
私たちは、二人で、二台のナナハンでキャンプに行くことにした。
焚き火を起こし、食べたのはなんでもないカップ麺だったが、なぜか死ぬほど美味かった。
二人で寝袋で並んで転がると、タケシは無数の星に彩られた空を指差し、あれがアンドロメダ、あれがスバルだと私に教えてくれた。彼の記憶障害は治りつつあったようだが、それ自体は私には関係がなかった。私が彼にナナハンを勧めたことで、彼との友情は終わったと思っていたが、タケシはまさかのナナハンと共に私の前に現れた。私の想いが彼に届いていた、ということが嬉しかったのだ。
タケシがいま指差している空の向こうには、確かになにかがある。
タケシはあと3日、私はあと1週間で20歳を迎える、1979年のことだった。