近年、国内メーカー数社が将来の"水素社会"の到来をにらんで、水素を燃料とするHICE(水素内燃機関)開発に取り組んでいるニュースが多く報じられています。そんな背景もあってか、HICEは比較的新しい技術と受け取っている人も少なくないみたいですが、そのルーツは1806年(江戸時代の文化3年)とかな〜り昔の時代にあるのです・・・。

世界初のICE(内燃機関)車は、じつは"水素燃料"を使用していました・・・!?

エンジンを搭載した自動車の元祖・・・といわれるのは、フランスのニコラ=ジョゼフ・キュニョーが1769年に初めて作った「キュニョーの砲車」と呼ばれる蒸気エンジン搭載の3輪車でした。

その後、1800年ころに発明された「高圧蒸気機関」の普及とともに、蒸気自動車は19世紀半ばから20世紀初頭まで間に多くの例が製作されることになりました。ただ高圧に耐えうる外燃機関ゆえの重い車重や、出発前にボイラーに火入れするなど様々な準備が必要という面倒臭さ、という欠点はこれら蒸気自動車に常につきまといました。

シリンダー内に燃料と空気の混合気を送り込み、混合気を燃焼させることでピストンを上下動させ、その力を駆動力に使う・・・という2&4愛好家にはおなじみのエンジンである内燃機関を搭載する車両は1806年に誕生しました。発明したのはフランス出身で、スイスの発明家であるフランシス・イザック・デ・リヴァズでした。

画像: デ・リヴァズのHICEV=シャレット(仏語で"カート"の意味)・オブ・デ・リヴァス。これは1958年に、オーストリアの画家であるハンス・リスカが描いたイラストです。今風? にいえば、ミッドシップの前輪駆動・・・ということになります。 group.mercedes-benz.com

デ・リヴァズのHICEV=シャレット(仏語で"カート"の意味)・オブ・デ・リヴァス。これは1958年に、オーストリアの画家であるハンス・リスカが描いたイラストです。今風? にいえば、ミッドシップの前輪駆動・・・ということになります。

group.mercedes-benz.com

18世紀後半に蒸気自動車の実験をしていたデ・リヴァズは、可燃性ガスの点火についても研究をしていました。それら知識を活かし、デ・リヴァズはクランクシャフトやコネクティングロッドを持たない、シンプルながらもユニークな内燃機関を発明。1807年1月30日に特許を取得し、そして内燃機関を搭載した自動車を試作しました。

水素燃料と空気の混合気は、それぞれバルブの手動操作で適切なタイミングのときにシリンダー内に導入。対向ピストンをレバーにより手動操作すると、シリンダー内から排気ガスをバルブを介して排出するとともに、新たな空気をシリンダー内に供給することができます。

なお点火装置はイタリアのアレッサンドロ・ボルタが1800年に発明した"当時"の最新技術、ボルタ電池(亜鉛板と銅板を希硫酸に浸す構成)を電源としており、ボタン操作でシリンダー内にスパークを発生させ、混合気に着火する仕組みでした。

画像: デ・リヴァズの内燃機にはタイミング機構がなく、燃料と空気の導入、そして点火はすべて"手動"で行う仕組みになっています!「A」がシリンダー、「B」が点火装置、「C」がピストン、「D」が圧縮水素ガス燃料が入るバルーン、「E」がラチェット、「F」が対向ピストンと吸気・排気バルブ、そして「G」が対向ピストンを操作するレバーです。 upload.wikimedia.org

デ・リヴァズの内燃機にはタイミング機構がなく、燃料と空気の導入、そして点火はすべて"手動"で行う仕組みになっています!「A」がシリンダー、「B」が点火装置、「C」がピストン、「D」が圧縮水素ガス燃料が入るバルーン、「E」がラチェット、「F」が対向ピストンと吸気・排気バルブ、そして「G」が対向ピストンを操作するレバーです。

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水素混合気の燃焼で生じる力はピストンを垂直なシリンダー内で上に押し上げ、上昇し切ったあと自重でピストンは降下します。ピストンにはプーリーとつながれたロッドが付いており、高い位置に上げられることで蓄積されたエネルギーは、ピストン降下時にプーリーに伝達されます。プーリーの外側にはロープを巻きつけたドラムがあり、そのロープは前輪側のドラムを駆動します。

つまり、ピストンが降下するときの力でドラムを回転させて車を前進させているわけですが、ピストンが降下し切るとラチェットによりロッドからの力の伝達が切り離され、次の水素混合気燃焼によるピストンの上昇の準備が整うことになります。

今日の内燃機関のように「ドドドド・・・」と連続して運転するイメージではなく、混合気を送り込んでから点火装置のスイッチを押して「ドーン!!」・・・そしてピストンが自重で降下し、シリンダー内から排ガスを排出して・・・最初に戻る、みたいなユッタリしたリズムでの運転だったのでしょう。

Hippomobile・・・は"ヒッポ"のモービル(カバ車)ではありません!?

1913年にもデ・リヴァズは「グラン・シャール・メカニーク」(大型機械式タンク)という、前作のシャレットより大きな内燃機関試作車を製造しています。車重約1トン、シリンダー長1.5メートル、ピストンストローク量1.5メートルというスペックの「グラン・シャール・メカニーク」ですが、その燃料には水素ではなく石炭ガスを採用していました。

残念ながら同時代の人々のなかには、デ・リヴァズの内燃機関が持つポテンシャルを看破できるひとはほぼおらず、世の中の大多数の人々は当時発展ぶりが著しかった外燃機関・・・蒸気エンジンにしか注目していませんでした。

もっともデ・リヴァズの後の時代にも、内燃機関搭載車の可能性を追求する発明家たちは登場しました。それらのなかでも著名な自動車といえば、初めて商品として成功した内燃機関である「ルノワール・ガス・エンジン」を搭載した「イポモビル」(仏語で馬車の意味)でしょう。

画像: Gasmotor Etienne Lenoir youtu.be

Gasmotor Etienne Lenoir

youtu.be

1860年に特許を取得し、1865年までにフランス・パリだけでも143機が販売され、また英ロンドンのリーディング・ガス・ワークス社でも生産された「ルノワール・ガス・エンジン」はルクセンブルク大公国ムッシー・ラ・ヴィル(現在はベルギー)出身の発明家、ジャン・ジョセフ・エティエンヌ・ルノワールの作品です。

蒸気機関をベースに改造して、ガス燃料の混合気燃焼で運転できるようにしたルノワール・ガス・エンジンは、水平シリンダー内のピストン裏表のどちらも、燃焼による力を受け止める構造になっています。吸気・排気弁はメカニカル制御され、冷却方法は水冷式でした(下のアニメーション動画で、各部構造を見ることができます)。

画像: Moteur Lenoir, 1860 youtu.be

Moteur Lenoir, 1860

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ルノワール・ガス・エンジンには混合気を圧縮させてから点火・・・という行程がなかったため、今日の内燃機に比べると低効率でした。一方で石炭ガスやガソリンなど、さまざまな燃料を使えるようになっているのは、とてもユニークな特徴だといえるでしょう。

ルノワールは1860〜1863年の間に、自身の内燃機を搭載した自動車を数台製作しています。その燃料にはさまざまな仕様があったようですが、水の電気分解によって生成された、今風にいうと「グリーンな水素」もイポモビルに採用された燃料のひとつでした。

画像: イポモビルの構造図。前輪1つ、後輪2つの3輪車で、ルノワール・ガス・エンジンをミッドシップのレイアウトで搭載しています。排気量は2,543cc(180×100mm)で、1863年にフランスのパリとジョアンヴィル=ル=ポン間の往復18kmをテスト走行したとき、最高速約9km/h、約3時間弱で走破しました。健康な成人男性なら、もっと早い時間で走破できそうなレコードですが、これはおそらくテスト中に故障などのトラブルがあったのでしょう。 commons.wikimedia.org

イポモビルの構造図。前輪1つ、後輪2つの3輪車で、ルノワール・ガス・エンジンをミッドシップのレイアウトで搭載しています。排気量は2,543cc(180×100mm)で、1863年にフランスのパリとジョアンヴィル=ル=ポン間の往復18kmをテスト走行したとき、最高速約9km/h、約3時間弱で走破しました。健康な成人男性なら、もっと早い時間で走破できそうなレコードですが、これはおそらくテスト中に故障などのトラブルがあったのでしょう。

commons.wikimedia.org

あの"オットーサイクル"の発明者も、水素燃料を研究していた・・・!?

ここまでデ・リヴァズのシャレットやイポモビルと、19世紀に生まれたHICE車を紹介しましたが、なんで黎明期の内燃機関はエネルギー密度に優れ、今日の内燃機関用燃料としてメジャーな存在であるガソリンを使わなかったのでしょうか・・・?

ルノワール・ガス・エンジンが話題となったそのころ・・・1861年にドイツのニコラウス・アウグスト・オットーは、デ・リヴァズの作に似たデザインの内燃機関を試作しますが、その翌年からは4ストロークエンジンの最初の実験を開始しています。

ドイツのクリスチャン・リースマンおよびフランスのアルフォンス・ボー・ド・ロシャとの特許紛争はありましたが、結果的に「オットーサイクル」という言葉とともに、オットーが4ストロークエンジン発明者として歴史書に名を刻むことになったのは多くの人の知るところでしょう。

画像: 1952年、ドイツ連邦郵便局の切手となったN.A.オットーの肖像。 commons.wikimedia.org

1952年、ドイツ連邦郵便局の切手となったN.A.オットーの肖像。

commons.wikimedia.org

オットーが内燃機関を研究していた1860〜1870年代、彼が研究に使用した燃料の多くは50%の水素を含む合成ガスだったといわれています。もちろん、内燃機用として有望な燃料であるガソリンもオットーは扱いましたが、安全面を考えると非常に危険という判断からガス燃料に戻したのです。

しかし、1885年にフロート式キャブレターの特許が取得され、キャブレター技術が急速に進歩したことでガソリンが実用的かつ安全に、内燃機関用として運用できる時代が到来することになりました。その結果として内燃機関用燃料としての水素、そして水素を含む合成ガスへの人々の関心は、急速に薄れていくことになってしまうのでした・・・。

先述の「なぜガソリンを使わない」という疑問への回答ですが、そもそもガソリンは1860年代にその名前が生まれた燃料であり、ガソリン内燃機関が実用化・普及してからメジャーな存在になった燃料だったのです。エネルギー密度が高く、理想的な内燃機関用燃料であるガソリンを、安全に扱うことができなかったため初期の内燃機関の開発者たちは、水素や石炭ガスなどを燃料に使っていたわけなのです。(続く)

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