2003年からデビューしたMotoGPマシンの"デスモセディチ"、そしてSBK=世界スーパーバイク選手権の主戦機となった"パニガーレV4"系など、近年ドゥカティ・スーパースポーツのフラッグシップモデルは、V型4気筒モデルが担うようになりました。21世紀以降のドゥカティの潮流・・・と思われることが多いV4ですが、その源流は遥か昔の61年前・・・1959年に生まれていたのです。

ドゥカティV4のはじまりは1959年から

第2次世界大戦後、焦土となった英国と欧州に本拠を置くモーターサイクルメーカーたちは、復興の起爆剤として戦場になることがなかった豊かな国・・・アメリカ市場での成功に生き残りをかけることになりました。

戦後イタリアに成立した小さな2輪車メーカーのひとつであるドゥカティは企業としての存続のために輸出市場・・・とりわけ米国での成功に集中するため、彼の地の輸入業者であるベルリナーモーターコーポレーションに強く依存をしていました。

そんななか、ジョーとマイクのベルリナー兄弟は財政的に豊かでないドゥカティに魅力的なオファーを1959年にしました。それは公平を重んじるアメリカの反トラスト法(独占禁止法の一種)により、警察がハーレーダビッドソン以外のバイクの白バイ採用が義務付けたことに関する、商品開発の相談でした。

戦前、アメリカの2輪市場はハーレーダビッドソンとインディアンが2大ブランドとして覇権を競っていましたが、戦後はインディアンの凋落によりハーレーダビッドソンの1強体制が出来つつありました。白バイに求められる警察の公式仕様はアメリカ全体でハーレーダビッドソンに合わせて標準化され、最低1,200ccの排気量、最低60インチ(1,524mm)のホイールベース、そして16インチタイヤの使用が要件に上げられていました。

画像: 1959年型の、ハーレーダビッドソンFLポリス仕様。いわゆる"パンヘッド"の大排気量VツインOHVエンジンを搭載していました。 www.mecum.com

1959年型の、ハーレーダビッドソンFLポリス仕様。いわゆる"パンヘッド"の大排気量VツインOHVエンジンを搭載していました。

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ベルリナー兄弟は、ドゥカティ側の責任者であるジュゼッペ・モンターノに連絡をして、アメリカのポリスバイク市場に関心があるか? という打診をしました。モンターノ、そしてドゥカティの技術面の責任者だったファビオ・タリオーニはこのオファーに同意。ドゥカティはハーレーダビッドソンよりもはるかに高度な設計かつモダンなデザインな車両を、よりリーズナブルな価格で提供できる・・・という確信をベルリナー兄弟に伝えたのです。

しかし当時のドゥカティは財政的に政府のコントロール下にあったこともあり、交渉を合意させるための多くの時間をモンターノは費やすことになりました(結局契約が成立したのは1961年)。アメリカ向けポリスバイクの開発コストは、ベルリナーモーターコーポレーションとの合弁会社が引き受けることになりましたが、その代わりとしてモデルの仕様はベルリナー側が決定することになりました。

鬼才タリオーニが生み出したアポロエンジン

もっとも、ベルリナー側がドゥカティ開発陣に求めた条件はただ一つでした。それは標準化されたアメリカのポリスバイクの規定を満たしつつ、当時のハーレーダビッドソンのフラッグシップであるFLシリーズのデュオグライドの排気量・・・74立方インチ=1,215ccに対抗可能な大排気量車であること、でした。

ベルリナー側が参考車として送った2台のハーレーダビッドソンを十分に観察したドゥカティ開発陣は、オーダーに従って1964年に2台のプロトタイプ完成車と、2機のエンジンのスペアを完成させました。この年完成した"ドゥカティ・ベルリナー"アポロ1260は、1,257cc(76.7立法インチ)の空冷V型4気筒エンジンを搭載。最高出力は当時の量産車としては驚異的な100馬力で、その最高速は時速120マイル(約190km/h)を超えるものでした。

タリオーニが生み出したアポロ用V4エンジンは、目論見どおり当時のハーレーダビッドソンをあらゆる面で上回るというコンセプトを満たすものでした。Vバンク角は一次振動対策に有利な90度で、バルブトレインはメンテナンス性に優れる2バルブ式のOHVを採用。また信頼性を重視する観点から、180度のクランクシャフトのビッグエンドには油圧低下の影響を受けにくいローラーベアリング支持を採用しています。

ボア・ストローク比は高速域に有利なショートストローク(84.5x56mm)を採用。まだ4速ギアボックスが当たり前だった時代に5速ギアを装備しているのも、1970年代から本格化した「高速時代」を見越したタリオーニの先見性を感じさせます。

ドゥカティのアポロは、アメリカンモーターサイクルの得意分野=クルーザーに初めて対抗した欧州車とも言えるでしょう。

standardnews.com

時代を先取りし過ぎた"アポロ"計画

しかし、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」のことわざのとおり、ドゥカティの野心作であるアポロに追従できる"周辺技術"は当時まだ整備されていませんでした。長年ドゥカティのレース部門を率いた開発者ライダーで技師であるフランコ・ファルネの手により、アポロのテストライドは行われましたが、特別に拵えたタイヤでさえアポロの大パワーを受け止めることは不可能だったのです。

タイヤを破壊しない出力・・・ということで、アポロのV4エンジンは80馬力までデチューンされましたが、それでも当時のタイヤ性能はアポロの大馬力で耐え得ることはできません・・・。最終的には65馬力まで出力を落とすことでなんとかタイヤの耐久性的に許容範囲というところまで、漕ぎ着けるのが当時は精一杯でした・・・。

残念ながら結果としてタイヤを持たせるには"過大な"出力を持つアポロは、大きな利益が見込めるアメリカのポリスバイクに採用されることはありませんでした。そして民生用の公道市販車としても販売されることがないままに、ドゥカティの歴史の影に埋没することになりました。

しかしアポロという大排気量V型エンジンを搭載する「高速車」の開発経験は、それまで小型車開発の経験しかなかったドゥカティに、多くの技術の蓄積の機会を与えることになります。1970年に投入された世界ロードレースGP(現MotoGP)用のVツイン500cc、そして1972年のイモラ200マイルで勝利したVツイン750ccの開発に、アポロ開発のノウハウが活かされることになったのは、多くの2輪史に詳しい人の知るところです。

画像: ドゥカティ・ムゼオの所蔵車。左はGP500ccクラス用Vツイン。右は1972年のイモラ・レーサーです。 www.flickr.com

ドゥカティ・ムゼオの所蔵車。左はGP500ccクラス用Vツイン。右は1972年のイモラ・レーサーです。

www.flickr.com

開発初期から3ケタ馬力を記録していたV4のアポロに比べれば、「速さ」にシビアなロードレーサー開発ではあるものの2ケタ馬力のGP500cc用やF750用の開発は、当時の周辺技術のことを鑑みるまでもなく、ずっとスムーズに進んだことは容易に想像できます。アポロという失敗が、Vツインという成功の母となったことに疑いを持つ人はいないでしょう。

画像: 2008年のEICMAに展示された、ケーシー・ストーナー車のドゥカティデスモセディチGP8。 en.wikipedia.org

2008年のEICMAに展示された、ケーシー・ストーナー車のドゥカティデスモセディチGP8。

en.wikipedia.org

1950年代末に生まれた"アポロ計画"と、今日のMotoGP用デスモセディチやSBKの主力となったパニガーレV4系の間の時代・・・1980年代にも、ドゥカティはパンタ系の技術を活かしたV4を試作しています。

1982年試作の、パンタ系空冷V4エンジンのドローイング。2バルブ式・78 x 52mmのディメンションで、排気量は1,000cc。ベンチテストの出力は、105馬力と言われています。

ottonero.blogspot.com

1970年代以降、市場やレーストラックにおける多くのドゥカティの栄光はVツインモデルによって築かれていますが、その背後には"通奏低音"のように、V4の旋律が流れていた・・・と言えるのかもしれません。

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