2ストロークのNS500でホンダ初の500ccクラス王者に!
1961年12月20日にアメリカ・ルイジアナ州に生まれたスペンサーは、子供のころからモータースポーツに親しみ、天才少年として注目を集めていました。スペンサーはなんと4歳からバイクに乗り、初のレースは5歳で体験! そして11歳のころは、すでにテキサスやルイジアナのローカルなダートトラックレースでいくつもの勝利をあげていたのです。
ティーンエイジャーになったスペンサーはロードレースも走るようになり、さらにその才能を開花させます。1979年はAMAナショナルのライトウェイト(250GP)で、自身のAMA初勝利を記録。そしてAMAスーパーバイクでは、最年少記録となった勝利(18歳8ヶ月)を記録しています。
1980年からホンダは、AMAスーパーバイクにワークスチームとして参加。そのメンバーに選抜されたスペンサーは、6月のロードアトランタでホンダ初のAMAスーパーバイク勝利をプレゼントするなどの活躍をみせました。
また同年、スペンサーは英米対抗戦・・・トランス-アトランティック・マッチ・レースに出場し、国際舞台でのデビューを果たします。ブランズハッチでのレースで2人のGP500ccチャンピオン・・・バリー・シーンとケニー・ロバーツを打ち負かす活躍に、多くのファンは将来のGPチャンピオンとしてスペンサーを意識することになりました。
そして同年のベルギーGP500ccクラスに、プライベーターとしてスペンサーは初参戦。そして翌1981年にはホンダの4ストロークGPマシンであるNR500に乗り、イギリスGPへ参戦しています。
当時スペンサーの才能を欲したのはホンダだけではなく、他メーカーもワークスGPマシンのシートをスペンサーのために用意するというオファーをしていました。GPへ本格的に挑戦するにあたり、もちろんスペンサーも勝てるマシンを欲していました。そこでホンダが用意したのが、NR500に代わる2ストローク3気筒のNS500でした。
1982年からGPフル参戦を始めたスペンサーは、7月のベルギーGPで初のGP優勝を500ccクラスで達成! その後サンマリノGPでも勝利をおさめ、年間ランキング3位を獲得しました。
1983年は、歴史に残る激戦をヤマハのケニー・ロバーツと繰り広げ、全12戦をこの2人だけが勝利する結果となりました。スペンサーとロバーツの勝ち星はともに6勝。2位表彰台もともに3度ずつ。リタイアもともに1回の同数でしたが、残りのリザルト・・・スペンサー3位1度、ロバーツ4位1度という僅差で決着がつきました。
ロバーツの142ポイントに対し、スペンサーは144ポイント・・・21歳での最高峰クラス王者となったのは当時の最年少記録でした。
最後のダブルタイトル獲得者として歴史にその名を残す・・・
1984年はホンダワークスの新兵器として4気筒となった新型NSR500が登場しますが、NSRで3勝、NSで2勝・・・計5勝に終わったこの年は、AMAスーパーバイク時代のライバルだったエディ・ローソン(ヤマハ)にタイトルを譲ることになり、自身も年間4位という不本意な結果に終わりました。
そして1985年シーズンの幕開けで、スペンサーはAMAの歴史に残る偉業・・・デイトナウィークのメジャーなレースで三冠(スーパーバイク、F1、250GP)を達成します。そしてGPではなんと250cc、500ccの2クラスにフル参戦という・・・とてつもない挑戦を開始しました。
異なるセンスとスタイルが求められる250cc、500ccの両クラスで、同シーズンのうちに勝利をおさめることだけでも至難の技ですが、スペンサーは250cc、500ccクラスでそれぞれ7勝ずつ記録するという圧巻なパフォーマンスを発揮します! その結果、彼は史上初の250cc、500ccのダブルタイトル獲得者として歴史にその名を残すことになりました(現行制度では複数クラスの参戦を認めていないので、スペンサーは今のところ最後のダブルタイトル獲得者です)。
しかし、圧倒的な才能の持ち主だったスペンサーですが、1987年以降は手首の故障などの理由から精彩を欠くことになりました。ホンダ離脱後の1989年以降はヤマハでGPを走りますが、その輝きを取り戻すことなく1993年を最後にGPの舞台から去ることになってしまいます。
しかしホンダファンの多くは今も、"ファスト・フレディ"と呼ばれた彼の強烈な速さを忘れることなく記憶していることでしょう。250ccクラスで7勝、500ccクラスで20勝・・・ホンダでタイトルを獲得したライダーのなかで、スペンサーの勝利数の記録は歴代7位にあたります。