P.リードとB.アイビーが結んだ「合意」
1968年のGPは、1960年代のGPシーンを席巻したホンダとスズキの2大ファクトリーが撤退したため、125ccクラスと250ccクラスは水冷2ストロークV4マシンを走らせるヤマハの天下となりました。
起用された2人のファクトリーライダーは、昨年に続きフィル・リードとビル・アイビーの英国人コンビでした。お互い以外には敵なしと言える状況の中、リードとアイビーはヤマハチームの方針として「紳士協定」を結ぶことになりました。前年125ccのタイトルはアイビーが獲得しているので、未だ125ccのタイトルを持っていないリードにこれは譲る・・・代わりに250ccのタイトルは未だ持っていないアイビーに譲る・・・これがその中身でした。
この年のヤマハのファクトリーバイクであるRA05Aは、ベンチテストで80ps!!という当時としては驚異の出力を発揮するモンスターマシンでした。昨1967年に2人の前に立ちはだかったホンダの並列6気筒マシンであるRC166Bと、天才マイク・ヘイルウッドは1968年のGP250ccクラスのグリッドには並びません。
昨年度の250ccタイトルを逃したのはヘイルウッドの強さが一番の要因でしたが、リードとアイビーが互いのポイントを食い合う「潰し合い」も見逃さない要因のひとつだったのです・・・。チームの方針としての「合意」は、第6戦チェコスロバキアGPでリードが早くも125ccクラスのタイトルを決定する"まで"は、2人ともチームの方針としてこれをしっかり守りました・・・。
「合意」が破棄されることで、生まれた"2分5.3秒"のドラマ!
第6戦チェコスロバキアGP125ccクラスでタイトルを決めた後、リードは「合意」を破棄して続く250ccクラスで勝つことを決意します・・・。じつはリードは、この年限りでヤマハがファクトリー活動をやめるという話を耳にしていました。1966、1967年と僅差で250ccクラスのタイトルを逃してきたリードは、これが最後のチャンスになるかもしれない・・・と考えたのです。
1963年日本GP以来、ヤマハファクトリーのエースとして活躍し、世界タイトルの獲得やマシン開発にも大貢献したリードは、1966年のアイビーの加入を推薦した人物でもありました。いわばアイビーにとっては恩人でもあるのですが、リードの翻意にアイビーはとても憤慨することになります。125ccクラスのタイトル獲得に「協力」したアイビーにとっては、それは当然の感情でした。
チェコスロバキアGP250ccクラスのレース以降、残り3ラウンドは険悪なムードで両者の「ガチバトル」が125、250ccクラスで展開されることになりました。そして最終ネーションズ(イタリア)GPが終了した時点で、リードとアイビーはともに5勝タイ。全10戦中6戦のベストリザルトのポイント合計で競う当時の有効ポイント制で、2人が得たポイントは46ポイント。そして全レースの合計ポイントも同じ52点となりました!
タイトルの行方は、両者がともに完走したオランダ、東ドイツ、チェコスロバキア、そしてネーションズの4戦でのレースタイム合計差により判定されることになりました。リードの3時間15分22.9秒に対し、アイビーは3時間17分28.2秒・・・2分5.3秒の差で、若きアイビーはベテランであるリードに屈する結果になりました・・・。
悲劇的な最期を迎えた、若き天才ライダー
この翌年の1969年、アイビーは4輪F2のレース活動をすることになりました。F2レースを続けるためには多額の資金が必要でしたが、そのことに頭を悩ませていたアイビーのもとに魅力的なオファーが、チェコスロバキアのヤワから寄せられました。
かつて乗ったヤマハのような、ヤワ製水冷V4・350ccで世界GP350ccクラスに参戦・・・というオファーを、アイビーは受けることにしました。当時ジャコモ・アゴスチーニとMVアグスタ3気筒が支配していた350ccクラスですが、アイビーはヤワに乗り西ドイツGPとダッチTTで、アゴスチーニとMVを脅かす走りで2位に入賞しました。
15万を越える観客が集ったザクセンリンクの東ドイツGPでは、誰もが王者アゴスチーニとアイビーの激戦が繰り広げられることを期待しました。しかしプラクティスにて、雨に濡れた路面状況を試すようにコースインしたアイビーに悲劇が襲いかかります。高速右コーナーでヤワの左下シリンダーが焼きつき、放り出されたアイビーはストローバリアのないフェンスポストに激突。翌日の1969年7月12日に、ビル・アイビーは26年の短い生涯を閉じることになったのです・・・。
こちらは1968年シーズンのヤマハファクトリーの、マン島TTでの活躍を収録した17分の動画です。動画の中ではRD05AとRA31A(水冷V4・125cc)の走りとサウンド、そしてまだ険悪な関係になる前のリードとアイビーの笑顔を見ることができます。
信頼を裏切ってもタイトル獲得への執念を見せたリードと、そして剥き出しの闘志で反撃したアイビー・・・互いにGPライダーとしての執念と意地をみせることになった1968年の250ccクラスは、250ccクラスでは最も僅差で雌雄が決したGPシーズンとして今も70年弱の世界GPの歴史に刻まれています。