ノートンとの共同プロジェクト
そもそもクワンテル・コスワースに搭載される水冷4ストローク並列2気筒DOHCエンジンは、1973年にノートンとコスワースの共同プロジェクトとして開発が始まりました。
先日、ティレルのプロジェクト34ことP34のことを紹介しましたが、P+ナンバーというネーミングは、ノートンの試作車にも好んで使われた命名法でした。AMC時代、そのままP11など「P」付きの名前で販売されたモデルもありましたけど、その多くは試作車のまま終わってます。
このノートンとコスワースの共同作は「P86」という名前でした。そのアイデアの根幹は、4輪F1の傑作エンジン、コスワースDFVを1/4にした750ccツイン・・・と言えるもので、公道用モデル版が75馬力くらい、レース用が100馬力くらいを目標に開発されています。
ノートンの瓦解により終了したエンジンが、1980年代に復活!
P86がモーターサイクルのかたちになって、初めてレースに参戦したのは1975年シーズン終盤のブランズハッチでした。前年の事故でマシンに乗れなくなったエースライダー兼開発者のピーター・ウィリアムスに代わり、エースとなったデイブ・クロックスフォードがライディングしたP86は、「ノートン・チャレンジ」という名前が与えられてました。
しかし、土曜のヒートレースでクロックスフォードは転倒負傷。代役のアレックス・ジョージが日曜のレースにのぞみますが、転倒の影響で冷却系にトラブルをチャレンジは抱えており、あえなくリタイアに終わりました。
翌1976年もチャレンジは際立った成績を残せませんでしたが、この時期になるとノートンブランドを所有するNVTの財政が危機的局面を迎え、P86計画も放棄を強いられることになりました・・・。
1980年代のおとずれを前にNVTは潰れ、P86とチャレンジの記憶はこのまま人々の頭から消えていくことになると思われました。しかし、1980年代になってからドゥカティ、モトグッツィ、ハーレーダビッドソンなどの2気筒車を用いる「ツインレース」=BOTTの人気がアメリカ、欧州、そして日本で高まっていったことが、再びP86が陽の目を見る契機になります。
P86計画が頓挫してから10年後、デイトナのプロツインには823ccに排気量アップしたP86エンジンを搭載する「クワンテル・コスワース」が参戦しました。その2年前、英国のクワンテル・メディア・グループの総帥であるロバート・グレーブスはコスワースを訪ね、社に転がるP86のエンジンを目にしました。
コスワース創始者のひとり、キース・ダックワースにこのエンジンのことを聞くと、彼はこれはコスワース製で唯一レースに勝利したことがないエンジンだ、とグレーブスに話ました。そんな不名誉なエンジンで、レースに勝利するという挑戦にグレーブスは魅力を感じ、BOTTマシンとしてのP86の開発が再スタートしたのです。
当時このジャンルのなかでとりわけ強かったのはドゥカティで、ツインレース用に空冷パンタ系のファクトリーマシンを実力のあるライダーに与え、デイトナなどのプレステージ性の高いイベントに参戦させていました。
クワンテル・コスワースを託されたのは、オージーライダーのポール・ルイス。彼はマルコ・ルッキネリとジミー・アダモという有力ライダーを有するドゥカティファクトリー相手に奮闘。最終的にルッキネリには敗れましたが、見事2位の座を獲得しました。
計画開始から15年目の大舞台での勝利!
その2年後、英国のベテランライダー、ロジャー・マーシャルに託されたクワンテル・コスワースは、見事デイトナでの優勝を実現しました! この時の相手は、世界スーパーバイク選手権でも活躍する水冷DOHC4バルブを採用したドゥカティ851でした。そんな強敵を相手に、デイトナのほかスパ・フランコルシャンでのBOTTイベントでもこの年勝利したのですから、クワンテル・コスワースの実力の高さのほどがうかがえます。
ノートンのプロジェクトとして計画された1973年から、かなりの時間を経ての勝利・・・レーシングエンジンの開発史としては、このP86のケースは非常にレアだと言えるでしょう。