日本語も達者だった"ノビーさん"
ローデシア(現ジンバブエ)出身のノビーさんの本名は、デレク・クラークです。彼の愛称のノビー(上流、上品)は、彼がスコットランドの名家の出であることに由来します。
ノビーさんは、父の鉱山開発の仕事の都合でアフリカ大陸に移住。ローデシアで子供時代を過ごしたノビーさんはモーターサイクルに夢中になりましたが、進路として選んだのはライダーではなくメカニックの道でした。
友人のガリー・ホッキングとともに、ノビーさんは1958年にGPの世界に飛び込みます。当時、同じアフリカ圏のパディ・ドライバーやジム・レッドマンが欧州のレース界で活躍していましたが、ホッキングは「アイツらより俺の方が速い!」と自信満々だったそうです。
その自信が誇張ではないことをホッキングは実績で示します。そして1960年、ホッキングはその力量を認められ当時最強のMVアグスタのファクトリーライダーに抜擢。そしてノビーさんの助けもあり、1961年の350/500ccクラス王者に輝きました。
ホッキングの引退後、GPの世界に残り続けたかったノビーさんに声をかけたのは、J.レッドマンでした。1963年からノビーさんはホンダファクトリーのメカとして、レッドマンや高橋国光、そして後期はマイク・ヘイルウッドのマシンを担当しています。
このホンダ時代、ノビーさんは独学で日本語を習得! 一方ではホンダのスタッフの英語教師役を務めるなど、語学の分野でもその才能を活かしています(そのほか、複数語を話せたそうです)。1966年には史上初のホンダによるソロ部門5クラス・メーカータイトル獲得に貢献。翌1967年限りにホンダはワークス活動を停止したため、1968年はプライベーターになったヘイルウッドと行動を共にしますが、ホンダから貸与されたマシンでのGP参戦、はホンダから許可されませんでした。
その後、ビル・アイビー、ケル・キャラザース、そしてロドニー・グールドの面倒をヤマハでみたノビーさんですが、1970年代は様々な契約形態でヤマハとの関わりを続けていくことになります。ヤーノ・サーリネン、ジャコモ・アゴスチーニ、ケニー・ロバーツら偉大なヤマハの王者をサポート。キング・ケニーが引退を決めた1983年末にノビーさんもヤマハを去り、マルコ・ルッキネリをエースとしていた当時のカジバに加入しました。
その業績の偉大さは、永遠に不滅です!
第1期ホンダワークス時代の秋鹿監督、そして1970年代のヤマハGPチームの溝口監督はともに、ノビーさんのチームへの貢献へ感謝と、その人柄の素晴らしさを讃えるコメントを1980年代の専門誌に寄せていました。なお数多くのチャンピオンを支えたノビーさんですが、ベストなチャンピオンは? という問いには、ヘイルウッドの名前をあげています。
ノビーさんによると、ケニーやアゴスチーニはマシンや環境を成績不振の理由にあげたりすることもあったそうですが、ヘイルウッドは一切その手の類のコメントをするライダーではなかったそうです。また常にメカニックやスタッフと食事を共にしたりと、非常に周囲に気配りする親切な人物だったと、その人間性も併せて評価していました。
1990年代にGPの世界を退いたノビーさんは、ニューヨークに移住。多くのクラシックイベントに登場し、オールドGPファンを喜ばせていました。しかし、ニューヨークをベースにする超有名なクラシックレーシングチーム、「チーム・オブソリート」のロブ・イアヌッチとの間で裁判沙汰となるなど、ゴシップに巻き込まれる不幸もありました・・・。
晩年はがんを患い、闘病生活を強いられたノビーさん・・・。天国で安らかにお休みしてほしいと、心から願います。こちらの動画はノビーさんが、2012年にアメリカのAMAの「ホール・オブ・フェイム」に選出されたときのものです。彼がロードレース界に残した業績は、永遠に不滅です。