かつて『バッドマン』役を演じたマイケル・キートンならではの設定
かつてヒーロー映画『バードマン』で大人気を博し、1990年代はスターであった俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、自ら監督・脚本・演出を務めるブロードウェイの舞台「愛について語るときに我々の語ること」で再起を狙っていた。
しかし、降板した俳優の代役に起用したマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)とは衝突し、娘サム(エマ・ストーン)には理解されず、さらにリーガン本人も、過度な緊張によるストレスでバードマンの幻影に悩まされていた。
落ち目の俳優の”中年の危機”
舞台のプレビュー公演を前に苛立つリーガンは、娘サムがマリファナをやっていることに腹を立て叱責するが、サムにはネットではもはやリーガンのことを覚えている者はいない、もはやオワコンなんだと逆ギレされ、ひどく落ち込む。
ところが、ちょっとしたアクシデントから裸で街を歩く羽目になって、リーガンはソーシャル上で第炎上。瞬く間にネットで再び「有名」になってしまい、さらに精神的に追い込まれていく。
やがて彼は完全に精神バランスを崩し、妄想の中のバードマンの囁きに応え、”彼”を受け入れるようになるのだ。
この映画は、リーガンの妄想と、現実が区別がつかなくなっていくさまを描いているが、観客にもそれが妄想の賜物なのか、それとも本当に現実が影響されてきているのか、よくわからなくなってくる。強烈なパラノイアムービーだ。
その意味で、名作『タクシードライバー』に通じる狂気が描かれており、現実を受け入れらない主人公が、それを変えようともがくうちに、偶然”成功”を手にいれる。それは予期せぬ奇跡であるが、少し間違えば単なる最悪の結末につながる無謀な行為によるものであった。
映像やカメラワークはスタイリッシュだし、『ファイトクラブ』のようなスピーディーで非現実的で没入的な演出もすごい。この映画を見るならば、マイケル・キートンを『タクシードライバー』のロバート・デニーロと重ね合わせて観ることをオススメする。話のつじつまを考えるのではなく、現実と妄想な間で揺れる主人公の狂気を追うのである。