オートバイ漫画は数あれど。ここでちゃんと紹介していなかったのが『750ライダー』。
実はぼくは読んだことがなかったのです〜。というわけで始まった『750ライダー』のレビューの後半です。(ようやく26ー50巻を読み終えた、というわけです!)
前編をお読みになっていない方はぜひ以下のリンクをご覧くださいませ。
後半戦(26-50巻)も、最後までラブコメでした!
『750ライダー』の主な登場人物は、
・主人公の早川光。高校二年生。
・光の同級生でガールフレンドの委員長(久美子)。
・光の同級生で親友の野崎順平。
・光の同級生で久美子の親友の麻子。
・行きつけの(というより入り浸りの)喫茶店のマスター。
・光と対立する暴走族の隊長。後半では光の親友になる。
・光のバイト先のガソリンスタンドの所長
・光たちの担任の熊田先生(第1話で光のCBを没収して事故させられたはずの先生)
・用務員のおやっさん。光たちの良き理解者で元軍人。
・星野先生。美人で柔道の達人。
こんなところです。
基本的に常にさざ波のような事件が起きては、なんとなく解決していく。その繰り返しで、何度も夏休みや冬休みがやってきては終わる。やっぱりそんな感じの展開です。
前半にあったような不良グループや暴走族との抗争はなく、ひたすらバイトと友情と進展しない(委員長との)恋の話だけで進んでいきます。
時代背景を考えるとある意味あたりまえなのかもしれませんが、光も順平もひどく貧乏で、コーヒーは常にツケで飲んでいるし、千円二千円のお金も持っていません。五人兄妹の長男である順平は、毎年毎年こどもの日には幼い弟たちに鯉のぼりをねだられ、クリスマスにはプレゼントを欲しがられ、自分の不甲斐なさにしょぼくれます。そしてその都度、光や委員長、マスターたちの温かい友情に助けられます。
また、光も前編(1-25巻)の暗い陰は全くなく、委員長に男の影がみえるとかみえないとか、テストの結果が悪かったなどの理由で落ち込み、そして友人たちに助けられるのです。
大人になったらオートバイを降りる。若者の、一時期だけの遊びのようにオートバイを認識していた時代の作品
このようにストーリー的にはまるで進まない、ほぼハートフルコメディのような作品となった後半戦ですが、最もショックだったのは、激しい抗争ののちに友人となった暴走族の隊長が、若くして結婚を決意し、その代わりとして自分の愛車を捨て、オートバイを降りるところです。
光も当然これにショックを受け、自分もいつかオートバイを降りるのだろうかと考えます。彼の悩みは、ガールフレンドである委員長から「早川くんはオートバイを降りたらただの男の子でしょう?」と言ってもらうことで心が晴れるのですが、ぼくの心は晴れませんw
古臭い。でも、だからこそ意味がある『750ライダー』の功績
オートバイの歴史を考えると(少なくとも国内は)、カワサキのZ1以前と以降で、テクノロジー面でもデザイン面でも大きく変わったと思います。
『750ライダー』の早川光が乗るHONDA CB750K(1969年発売)は、一つの時代の頂点で、カワサキで言えばマッハ(500SSマッハIII H1)などと同じ世代。今見ると、古いバイク(だけどかっこいい)と思える形です。しかしZ1以降はいわゆるネイキッドバイクの、今につながる型ができています。CB750は素晴らしいバイクでしたが、やはり前の時代のバイクという感じがします。
同じ意味で、『750ライダー』は、オートバイを題材にした青春を描く、パイオニア的な作品です。オートバイが暴走族の必須アイテムとしてしか扱われていなかった時代の作品なのです。
だから前半の暴走族ではないけれどアウトローではある少年を描く作品から、後半ではほのぼのとしたラブコメへと変貌していくのも、ある意味当時の環境の影響と言えるかもしれません。
それ以降の『あいつとララバイ』(1981年から1989年)や『バリバリ伝説』(1983年から1991年)などには、「いつかバイクを降りる日が来る」とか、「将来何になろう」と考えるようなことはありません。バイクにはいつも乗っているし、恋とバイクを天秤にかけることもない。菱木研二も巨摩郡も最終的に公道レースからは卒業しますが、それもレースという次のステップに向かうからです。
また、『キリン』(1987年から2010年??)はレーサーという職業的ライダーへの世界へと向かうことはないが、オートバイを降りるという選択はやはりありません。
『750ライダー』の早川光がアウトロー的な主人公から、ささいな青春の蹉跌に思い悩む普通の少年に変わったことや、オートバイに乗り続けることの難しさを意識させられることは、完全に1970年代から80年代前半という時代背景のせいでしょう。
今読むと、『750ライダー』は明らかに古臭く、前の時代の作品です。しかし、シェークスピアの悲劇だって大昔の作品なわけです。
そう思って今読んでみれば、現代につながる普遍的な良さが見えてきます。
オートバイを乗ることが悪だった時代に背いた一人の少年が手に入れた、普通の青春の物語。そこに価値があるのだ、そう思います。