モータースポーツ界における女傑10選!みたいな企画は、今まで数多く様々なメディアで掲載されてきたと思いますが、大体いつも1位の座につくのはこの方だと思います。1982年、世界ラリー選手権(WRC)で総合2位に輝いたフランス人パイロット、ミシェル・ムートンその人です。
1982年に3勝! 惜しくも12ポイント差でタイトルを逃す。
1951年生まれのムートンは、高校卒業後は法学の道に進みました。しかし、ほどなく彼女は学業よりもラリーに熱中するようになりました。14歳で父のシトロエン2CVをドライブした彼女の、最初のWRCイベント参戦は1973年のモンテカルロラリー。しかし、このときはコ・ドライバーとしての参戦でした。その後、父の助言を受けてドライバーに転身。アルピーヌ・ルノーA110をドライブするようになります。ムートンはプライベーターとして、アルピーヌ・ルノーで1976年までWRCなどのイベントに参加しました。
彼女のドライバーとしてのWRCデビューは1974年、アルピーヌ・ルノーA110で参加したツール・ド・コルセでした。12位という好成績に周囲は「特別なエンジンを搭載しているのでは?」というあらぬ疑いをかけましたが、それは根拠のない誹謗中傷にすぎないものでした。
1977年から、彼女の才能に目をつけたフィアット・フランスは、ムートンにフィアット131アバルトをドライブさせますが、ムートンはこのクルマでは目立った成績をおさめていません(ムートンのコメントでは、戦闘力に不満を覚えたようです)。WRC以外のイベントではありますが、ポルシェ・カレラRSに乗り1977年のラリー・ド・エスパーニャ優勝、そしてツール・ド・フランスで2位という成績をおさめたときには、上述のような彼女の実力を疑う声はすっかり消え去ったと言われています。
彼女の最盛期は、アウディのファクトリーチーム時代でした。1981年のWRCイタリア戦では、女性としても初のWRC優勝を記録。4輪駆動のアウディ・クワトロに合ったドライビング・テクニックを取得したムートンは、1982年にヴァルター・ロール(オペル)とドライバーズタイトルを争いますが、残念ながら2位に甘んじることになります。しかし、同年の初マニュファクチャラーズ・タイトルをアウディが獲得したことは、彼女の大きな助力のおかげといえるでしょう。
グループBとともにラリー界から引退
1985年には、アメリカのパイクスピーク国際ヒルクライムで総合優勝したりと、その実力の高さを顕示したムートンですが、1986年限りに現役を引退しました。軽量ハイパワーなモンスターマシンであるグループBが疾走した時代(1982〜1986年)、女性ながら大活躍したムートンの功績は永遠のものといえるでしょう。それは未だ、あらゆる世界選手権のカテゴリーで、彼女以外に女性の優勝者が存在しないことからも明らかです。
引退後もFIA(国際自動車連盟)の役員に就任するなど、女性のモータースポーツ参画に尽力するムートン。まさに彼女は、モータースポーツのレジェンドたる女傑にほかなりません。