ハレとケ、とは??
かの日本を代表する民俗学者柳田國男は日本の大衆の世界観に「ハレとケ」という概念を提唱した。
わかりやすく言えばハレは非日常であり,ケは日常である。日常の単調な農作業をケとすれば,祭りは非日常。無礼講という言葉があるがハレの時にはケのルールも適用外として盛り上がる。ハレがあるからケの単調な毎日も耐えられると言えるかも知れない。
8月のねぶた祭りでエロスを放出??
青森の出生月のデータを見ると面白い傾向がある。4月,5 月が全国平均と比べて出生数が多いのだ。
参考「青森県で4月の出生が多いのは、ねぶた&ねぷた影響?」
その理由として言われているのは所謂「ねぶたベビー」8月のねぶた祭りで盛り上がった男女の間に生まれる子供という説だ。ねぶたの高揚感は、普段大人しく真面目な女子でも、自分のもっている本能的なエロスを放出するのだろう。
この時だけはそれを放出しても許されるという空気感を街全体が生み出す。ねぶたで日常から切り離された少女達が処女を喪失するのももねぶたの夜が多いとも言われている。
その時だけはエロスを出すことが許される。そんな雰囲気を社会全体が創り出すことは大事なことなのかも知れない。現在の都市における男女は、ある意味毎日日常である「ケ」の状態のままだ。非日常は自分で創り出さなければいけない。
しかし,親や教育で真面目に生きることを厳命された若者が自分から非日常を生み出すことは難しい時代になっている。真面目な女子が処女を喪失するには、とてつもないエネルギーが必要だろう。
エロスを否定しては祭りが成立しない場合もある
それには相当な非日常感が必要だ。そういう意味では祭りというのは、社会が非日常を生み出すために創られた社会システムでもあったのだ。しかし,最近は祭りにもグローバルスタンダードが及んでいる。何千年も続いた「裸祭り」のポスターの男の胸毛が「セクハラ」ということで、JRの駅のポスターから撤去されることがかつてあった。非日常にグローバルスタンダードを当てはめることは、文化の喪失だ。退廃主義的には、ダブルスタンダードな社会であることが重要だ。
ハレとケ。それは昼間と夜でもよい。日常の自分とエロスを放出できる夜の自分。このメリハリを生活の中に創り出すことが退廃主義としては大事だ。昼間の真面目に働く自分と夜のマスカレードな自分。退廃主義な男女は是非意識して欲しい。
ケのエネルギーを枯渇させるな
実はハレとケにはもうひとつ「ケガレ」という考え方がある。しかしそれは「汚れ」では無い。「ケ枯れ」は、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇することであり,つまり非日常的な活動により充填されるエネルギーのことだ。退廃主義的解釈をすればエロスによって充填されたエネルギーで、ケの日常を生きていくエネルギーを貯めることになる。
エロスの無い日常を過ごしてしまえば、そこには汚れたつまらない自分しか残らない。奔放に生きて汚れてしまうというのは実はキリスト教的な間違った概念だ。ケ枯れないように生きることこそが退廃主義的な生き方だと言えるだろう。
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