みなさんご存知のとおり、2&4のGP最高峰を制覇したライダー/ドライバーは、英国のジョン・サーティーズが唯一無二の存在です。そしてエンジン開発の分野でも、サーティーズ同様に2&4のGP両方を制したエンジニアがいるのですが、彼の存在はサーティーズに比較するとほとんど皆無といってもいいくらい語られることがありません・・・。彼の名はレオ・クズミッキ(1910〜1982年)。ポーランド生まれの偉大なエンジニアの数奇な人生を、振り返ってみたいと思います。

戦争によって、英国に渡ったクズミッキ・・・

MotoGP・・・世界ロードレースGPのファン、またはF1のファンを自認する方ならば、偉大なるジョン・サーティーズの名前を聞いたことがあるでしょう。戦後2&4の最高峰であるGPとF1で、サーティーズは唯一両部門のチャンピオンになったレジェンドライダー/ドライバーです。

J.サーティーズは1956〜1960年の間、MVアグスタのエースとして世界ロードレースGP(現MotoGP)に参戦し、350、500ccクラスで合計7度世界王者に輝きました。そして1964年にはフェラーリに所属し、F1のタイトルを獲得しています。唯一の2&4両方のGPタイトル保持者は2017年3月10日に、83歳でこの世を去りました。

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そんなサーティーズのエンジニア版・・・世界ロードレースGPを制したマシンのエンジンを開発しタイトル獲得に貢献、その後F1のエンジン開発を担当してタイトル獲得に成功したエンジニアであるレオ・クズミッキは、その功績の割には語られる機会が極端に少ない人物です・・・。

1910年10月25日、ポーランドのワルシャワに生まれたクズミッキは、1930年代後半に内燃機関の専門家として、ワルシャワ大学の講師として働いていたと伝えられています。そして1939年、ナチスドイツによるポーランド侵攻により欧州は第二次世界大戦という悪夢の時代に突入することになりますが、そのころポーランド軍のパイロットだったクズミッキは、ワルシャワ陥落後に中立国だったハンガリーなどを経て英国へ渡ることになりました。

当時の英国のポーランド人部隊といえば、「303スコードロン」がミリタリー好き的には有名でしょう。303スコードロンはポーランド空軍の軍人を中心に編成された英国空軍の部隊ですが、バトル・オブ・ブリテンの活躍をはじめ優れた撃墜数を誇る空戦部隊としての貢献ぶりは、今でも英国人の間で讃えられています。

303スコードロンのポーランド軍人たち。英国上空でのドイツ空軍との戦い・・・バトル・オブ・ブリテンでは、彼らは英軍機に搭乗して活躍。伝説的な活躍で英国の勝利に貢献しました。

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異国の地でクズミッキは1945年の戦争終結までの6年間、最も犠牲者数が多かった激戦地の部隊に所属し、祖国を侵略した相手と戦っていました。しかし周知のとおり、ナチスドイツが破れ去った後のポーランドは、ソ連の影響下にある共産主義国家となってしまいました。そして自由を失った故郷にクズミッキは帰国することを選ばず、英国に留まり続けることを選びました・・・。

単なる「清掃係」として、ノートンに雇われたクズミッキ・・・

2012年に英国のオークションに出品された、第二次世界大戦期のL.クズミッキの遺品。滑走路に立つ彼の肖像画や、航空機をうつした白黒写真は、わずか42英ポンド (約6,000円)で落札されました・・・。

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英国に残ったクズミッキは、やがて新たな職を手にします。バーミンガムにあったモーターサイクルの大メーカー 、ノートン社のスタッフとして、クズミッキは雇用されたのです。

ただ、ノートンは優れた内燃機関専門家としての彼の実力を知ってか知らずか、なんと「清掃係」というポジションを彼に与えています・・・。記事のタイトルはオチャラケて「レレレのおじさん」と書いてはいますが、実際に彼の主な業務のひとつはホウキを手にして、工場の床掃除をすることだったのです・・・。

いずれにせよクズミッキのエンジニアとしての際立った才能はそのまま埋没することなく、周囲で働くノートン 社のスタッフたちにすぐに知られることになりました。当時ノートンレース部門で働いていたチャーリー・エドワーズは、以下の引用のように語っています。

「ある朝、私が実験部門の部屋に入ったとき、彼(クズミッキ)は床の掃き掃除をしていました。私たちは彼と話をしてみて、この男がタダの掃除人ではないことにすぐ気づきました。やがて部屋には、ジョー・クレイグ(※当時絶対的権力を持っていた、ノートンレース部門責任者)が入ってきました。(中略)私はジョーに、この男が(我々を)助けてくれるかもしれない、そして彼(ジョー)にクズミッキと話をするべきだと言いました。

当時ノートンワークスチームは、1929年の基本設計を踏襲するオーバーカムシャフトヘッド方式の単気筒エンジンを、主戦マシンに搭載していました。1930年代には"無敵艦隊"と称されるほどノートンのワークスチームはTTや欧州のGPで活躍していましたが、第二次世界大戦が始まる前には、欧州のマルチシリンダー車が急速な戦闘力向上を遂げていました。

1956年型ノートンマンクス40M(350cc)機関部。このエンジンはボア・ストロークや動弁系の変更などを受けて長年発展しましたが、OHC単気筒というフォーマットは変わることはありませんでした。

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戦後の過給器(スーパーチャージャー)禁止措置や燃料事情の悪さなどから、戦争直前の時期には確実にあったマルチシリンダー車とのパワーのハンデを埋めることで、ノートン単気筒は戦後成立した世界ロードレースGPで欧州勢を相手に優勝争いをすることができました。しかし燃料事情改善などによりやがて欧州製マルチシリンダーが勢力を盛り返し、遅かれ早かれノートンの脅威になることは明らかでした。

1950年、スイングアームを採用した、"フェザーベッド"フレームを採用したノートンのワークス単気筒に乗るジェフ・デューク。1950〜1970年代のフレーム作りに多大な影響を与えたフェザーベッドの産みの親、クローミーとレックスのマカンドレス兄弟の開発エピソードは、英車ファンやロードレースファンの間では有名でしょう。

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ロードレーサーのレーシングエンジンとしては時代遅れとなりつつあったノートン単気筒に、再び活力を吹き込むことになったクズミッキの「魔法」については、次回に紹介いたします。(続く)。

※後編は2020年1月29日に公開予定です。