2ストローク時代のV4・500cc開発は、"前例踏襲NG"が条件提示されてました
2002年のMotoGP元年から、ヤマハはMotoGPクラスを並列4気筒の歴代YZR-M1で戦ってきました。しかし周知のとおり、ライダータイトルを獲得したのは2021年のファビオ クアルタラロが最後となり、2022年以降はドゥカティをはじめとするV4搭載勢相手に苦戦が続き、2022年第10戦ドイツGPがクアルタラロ最後の勝利となって久しいです。
苦戦続きの並列4気筒の代替案として、ヤマハは2027年シーズンの850cc / 75mmピストンボアのMotoGP新ルールをにらんで開発していた、V4版YZR-M1を前倒しして実戦に使うことになったわけです。ライバルたちと同じV4の心臓部を得たYZR-M1がどのように戦闘力を上げていくかは、今後のMotoGPの見どころのひとつです。
最高峰クラス用V4搭載車の初代機、1982年のYZR500(0W61)誕生の背景には、やはり当時のヤマハの500ccクラスでの苦戦ぶりがありました。当時500ccクラスで活躍していたのは、2ストロークのスクエア4エンジンにロータリーディスクバルブの吸気系を組み合わせていたスズキRG勢です。
ヤマハYZR500はエースのケニー ロバーツが1978〜1980年の間に3連覇の偉業を達成しましたが、"打倒ケニー"のスローガンの下開発されたスズキRGΓが1981年にタイトルを奪還し、次第にピストンバルブ式2ストローク並列4気筒のYZR500では、ロータリーディスクバルブ式のRGΓに出力的に対抗するのが難しいことが明らかになっていきます。
1978年のヤマハYZR500(0W35K)は、ケニー ロバーツに世界ロードレースGP500ccクラス3連覇の、最初のひとつ目のタイトルをもたらしたモデルです。
global.yamaha-motor.com当時のヤマハ開発者のひとりは、ケニー ロバーツ絶頂期の1980年のころ、スタッフが後ろを見て仕事する風潮が出てきたと振り返ります。3連覇を達成し、YZR500をベースに作られた市販レーサーのTZ500の評判も上々・・・そんな上手くいっている状況が慢心を生んだのかもしれません。
スズキRGΓへの対抗策としてヤマハ開発陣の主流派が開発したのは、ライバルと同じエンジン型式であるロータリーディスクバルブ式スクエア4のYZR500(0W54、1981年)でしたが、その一方で1982年シーズンに向け責任者の畑則之(当時部長)は「ロータリーディスクバルブのハイパワーV4を作れ」という命令を下していました。
それに応じたのは主流派の保守的開発姿勢に懐疑的だった、反主流派のスタッフたちでした。なおヤマハは1960年代の第1期世界ロードレースGP活動期に、ロータリーディスクバルブ式V4のRD05(およびRD05A、ともに250cc)とRA31(およびRA31A、ともに125cc)を走らせていましたが、「RD05」の発想では駄目という注文も畑部長はつけていました。

1968年、世界ロードレースGP250ccクラスのタイトルを獲得した、フィル リードが駆ったヤマハRD05A。機関部両側面に、それぞれ2器のキャブレターとロータリーディスクバルブの組み合わせを配置。クランクシャフト2軸からの出力を伝達するプライマリーシャフトからなる5軸構成で、70ps以上の強心臓ぶりを誇りました。
www.autoby.jp新時代のヤマハV4の発展に期待したいですね!
かつてのRD05系やRD31系、そしてスズキRG系のように、クランクシャフトの同軸上にロータリーディスクバルブを配置するのはエンジン幅の拡大に目を瞑れば合理的で、オーソドックスな手段といえます。それゆえにRD05系やRD31系とは異なる発想・・・という畑部長のリクエストは、開発陣にとっては大きな制約となりました。
V4開発の検討会議は当時連日のように開催されたそうですが、ある日入社間もないスタッフのひとりは「無理だよね畑部長の言うことは。Vバンクの中でローターが回る以外・・・」と声を漏らしました。その言葉に強烈なインスピレーションを覚えたエンジン設計者は、すぐにドラフター(製図板)にかじりついて計画図を描き上げることになりました。これが初のヤマハの最高峰クラス用V4である、1982年のYZR500(0W61)の開発の起点になったわけです。
1982年デビューのYZR500(0W61)用V4エンジン。Vバンクの間に2枚のディスクバルブがおさまり、それぞれが前後シリンダーの吸入タイミングを司る仕組みになっています。
global.yamaha-motor.comV4のYZR500(0W61)は開幕直前の1982年2月に完成しましたが、エースのケニー ロバーツは開幕戦(アルゼンチン)をスクエア4改良型のYZR500(0W60)で戦い勝利しました。シーズンはじめのころのスクエア4 のYZR500(0W60)は130馬力以上だったのに対し、熟成期間のないV4のYZR500(0W61)は120馬力ちょっとしか出力がなく、そのままお蔵入りになりそうな危機感を開発者たちは感じたそうです。
しかし第2戦オーストリアGPで、ケニー ロバーツはV4のYZR500(0W61)をデビューさせることを選びました。ケニー ロバーツは当時ヤマハ監督だった前川和範に全幅の信頼を寄せており、反主流派のボスである前川の語るV4の将来性を信じて、YZR500(0W61)で残りの1982年シーズンを戦うことを選択したのです。

1982年型YZR500(0W61)のストリップ。次モデルのYZR500(0W70)から採用される"アルミデルタボックス"のルーツとなる車体を持ち、横置き配置でショック両側にリンクを配した"蟹ばさみ"式と呼ばれる、ユニークなリアサスペンションが与えられているのも特徴です。
global.yamaha-motor.comデビュー戦は3位表彰台獲得。そして第4戦スペインGPでV4初勝利を記録。しかしロバーツは英国GPでの負傷もあって、この年はランキング4位に終わることとなりました。1983年シーズン、改良型V4のYZR500(0W70)に乗ったロバーツは、フレディ スペンサー(ホンダ)とGP史上に残る死闘を繰り広げ惜しくもランキング2位となり、GPから引退することとなりました。
ロータリーディスクバルブを備えたV4、が初の最高峰クラス用V4開発のテーマでしたが、皮肉にもパワーを得るために採用したロータリーディスクバルブは、リードバルブ式と比較しての始動性の悪さというネガになりました。
現代主流のクラッチミートによるスタート方式では始動性は大きな問題にはなりません。しかし、まだ押しがけスタート時代だった1983年シーズンは、リードバルブ式のホンダNS500に乗るスペンサーに対する、YZR500(0W70)のディスアドバンテージだったのです。
1984年型ヤマハYZR500(0W76)。クランクケースリードバルブ式V4で、エディ ローソンが4勝を記録して初タイトルを獲得しました。
global.yamaha-motor.comロータリーディスクバルブからクランクケースリードバルブ式に変更された1984年のYZR500(0W76)の基本レイアウトは、その後点火時期変更(位相180度の等間隔2気筒同時爆発から、位相0度・90度の不等間隔2気筒同時爆発)などの改良はありましたが、構成を大きく変えることなく18年間使い続けられることになりました。
戦闘力不足から並列4気筒を捨ててV4を作る、という構図は1980年代初頭のヤマハ製2ストロークも現代のヤマハ製MotoGP車も一緒ではありますが、2ストローク時代はその後のグランプリの世界の典型となるV4をヤマハが生み出したのに対し、MotoGP車の方ではライバルと同じ道を歩む・・・という違いになります。
なお2ストロークのYZR500が並列4気筒時代もV4時代も同じ名称だったように、YZR-M1もその名称を使い続けることになるみたいです。4ストローク時代のMotoGPで、V4を搭載するYZR-M1はどのような歴史をこれから刻むことになるのでしょうか? 楽しみです!




