バラードスポーツCR-Xとホンダをこよなく愛するカメラマン伊藤嘉啓氏の愛車CR-Xのオドメーターはなんと70万kmを越えている。これまで一体どこへ向かったのか、なぜそこまでCR-Xを愛するのか、そして今後の走行距離は何万kmに到達するのか…この連載を通してCR-Xの魅力とともに徐々に紐解いていく。今日はちょっと意外なCR-Xの勇ましい歴史について。(文:伊藤嘉啓/デジタル編集:A Little Honda編集部)

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CR-X、実は海外のラリーに挑戦していた

ホンダ4輪のモータースポーツっていえば、F1やスーパーGT、スーパー耐久みたいなサーキットでの活躍が真っ先に思い浮かぶと思うけど、実はそれ以外にも、ジムカーナやラリー、ダートトライル(ダートラ)なんかでも、活躍してたりする。どちらかといえばサーキットの印象が強いような気がするけどね。

昭和のホンダ車だと、ラリーやダートラといった競技でギャップを越えてジャンプはちょっと荷が重いイメージなんだけど、初代インテグラタイプRあたりから頑強なクルマになってきて、土系の競技なんかでも活躍しだしてきたんじゃないかな。ボクが乗ってるCR-Xは、ライトウェイトとショートホイールベースを生かして、当時はジムカーナで大活躍してたんだ。

そんなCR-X、ジムカーナでは抜群の速さを発揮したけど、レースやラリーの印象はあまりない。しかし、意外にもバラードスポーツCR-Xは海外のラリーに挑戦してたというから驚きだ。

画像: CR-X、実は海外のラリーに挑戦していた

2019年12月9日まで、ツインリンクもてぎコレクションホールの企画展『RALLY WORLD —日本の挑戦車たち—』で、その貴重なマシンが展示されてる。

このCR-Xのラリー車は、第1回香港北京ラリーに参戦して、Sクラス優勝を飾ったマシンそのもの。普段はコレクションホールの収蔵車として倉庫に保管されてて、滅多に展示されないものなんだ。そういえば、2010年にバラードスポーツCR-Xだけのミーティングを、ツインリンクもてぎで開催したときに、お願いして引っ張り出してもらったコトがあったんだけど……。

では、どのような経緯でCR-Xが香港北京ラリーに参戦することになったのだろうか。その発端は、故人となられたモータージャーナリストの渡辺靖彰さんと、第一回日本グランプリにもドライバーとして参戦された大久保力さんが、ホンダに企画を持ち込んだことから始まるみたいだ。今となっては、当時の詳細を知る数少ない関係者の話によると、広報車の一台をラリーマシンにすることになったんだとか。

マシンの製作は、ホンダの栃木研究所や無限じゃなくて、後にGA2シティでジムカーナやレースの活動をする埼玉のホンダロデオが担当して、急遽仕上げたようだ。Sクラスのレギュレーションがどういったモノなのかよくわからないけど、当時はそれほど厳しくはなかったようだ。

ロールゲージはダッシュ貫通タイプじゃないし、スポット増しもされてない、そんな余裕はなかったのか……。リアのラゲッジスペースに安全タンク、助手席前にはラリーコンピューター、フロントの大型補助灯とマッドフラップ、そして若干高められた車高がラリー車っぽいよね。

いまだに大人気の無限マフラー、そして純正オプションのボンネットディフレクターのチョイスがマニアックなんだなぁ。タイヤは標準サイズより細い175/65R14のポテンザRE460RにBSラリーR.A.P.の組み合わせ。

会場に飾ってある当時の写真と見比べると、ホイールとドアミラーがチョット違う。ドアミラーは、なぜかマイナーチェンジ後のカラードタイプで、しかもカラーはクォーツシルバー。エンジンは、ガソリン事情が良くないコトを考慮して、当時開発中だったヨーロッパ向けの有鉛仕様に、バッフルを入れたオイルパンで対策。これだけの改造で、3500km以上の悪路を走破して、優勝したんだから凄いよね。

この企画展、CR-Xが唯一のホンダ車。他にはGr-Bマシンのスタリオン、サバンナRX-7、セリカ等が展示されてるんだ。貴重なマシンたちに会いに行こう!

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