バラードスポーツCR-Xとホンダをこよなく愛するカメラマン伊藤嘉啓氏の愛車CR-Xのオドメーターはなんと70万kmを越えている。これまで一体どこへ向かったのか、なぜそこまでCR-Xを愛するのか、そして今後の走行距離は何万kmに到達するのか…この連載を通してCR-Xの魅力とともに徐々に紐解いていく。今回は、まだまだ続く『昭和のホンダ車ミーティング』ネタ。(文:伊藤嘉啓/デジタル編集:A Little Honda編集部)

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お待たせしました、昭和のホンダ車ずらっとご紹介。

ホンダ車のプラモデルマクラーレンMP4/5Bの破片という変わり種から紹介したので、ここからはホントの『昭和のホンダ車』を紹介していこう。

画像1: お待たせしました、昭和のホンダ車ずらっとご紹介。

というわけで最初はコレ、3代目アコード。若干ローダウンして黒いノーズブラを取り付けた姿は、アメリカンな雰囲気が漂うドレスアップカーにしか見えない。だけど、ドアから後ろが隣のエアロデッキとも、さらに隣のUSアコードクーペともチョット違う。

そう、これはアメリカ向けの3ドアハッチバックで、日本では発売されてないモデルなんだ。

画像2: お待たせしました、昭和のホンダ車ずらっとご紹介。

3代目アコードのデビューは1985年6月。80年代半ば、ホンダは超イケイケの時代。1984年の10月に、S800以来久しぶりのDOHCエンジンとなるZC型エンジンを載せたシビックSiとCR-X Siを追加したあたりから、怒涛の新型車ラッシュが始まってく。

1985年2月、全車DOHCエンジンを搭載した(SOHCエンジンも後に追加された)クイントインテグラがデビュー。そして6月にアコード/ビガー、その発表から3カ月後の9月には、丸目がカワイイ初代トゥディで軽ボンネットバンのカテゴリーに参入、そしてそこからわずか1カ月後の10月には、ホンダ初の3ナンバー車となるフラッグシップのレジェンドを発表する。

これだけでも相当スゴいんだけど、8月には今の青山に本社ビルを竣工させて移転。さらにF1では、ナイジェル・マンセルとケケ・ロズベルグが終盤にかけて3連勝。2輪もフレディ・スペンサーが250と500でダブルタイトルを獲得。2輪の市販車も矢継ぎ早にニューモデルが投入されて……その数は、あまりに多すぎて残念ながらボクには把握しきれない。とにかく、もの凄い勢いの年だったんだ。

ちょっと横道にそれちゃったね。アコードのハナシに戻そう。

アコードは元々シビックの上級車っていう位置付けで、1976年に3ドアハッチバックでデビューする。翌1977年の10月には4ドアのサルーンが追加されて、より幅広いユーザーを獲得していったんだ

1981年に発売された2代目は、ベルノ店専売の兄弟車ビガーとともに、3ドアハッチバック、4ドアセダンというラインナップで登場する。アコード/ビガーとも3ドアハッチバックより4ドアがメインになってくんだ。

ただ、初代ほどのインパクトが感じられなかったためなのか、国内の販売はやや苦戦したみたい。そして1985年に発売された3代目は、初代、2代目までとは違って、大胆なモデルチェンジをする。それは、ミドルサイズのセダンとしては異例のリトラクタブルヘッドライトを採用して全高も低く、オッサンが乗るセダンのイメージを一新させたんだ。

画像3: お待たせしました、昭和のホンダ車ずらっとご紹介。

この3代目の3ドアは、それまでのハッチバックとは違う新しい形を模索して、日本ではエアロデッキっていう斬新なモデルを送り込む。アメリカは従来どおりのオーソドックスな3ドアハッチバックと新たに2ドアクーペの設定があって、後に逆輸入のカタチで日本でも2ドアクーペは発売されるんだ。

だけど、写真の3ドアハッチバックは残念ながら日本で発売されなかったから、こうやって国内で見掛けるコトは珍しいんじゃないかな。

画像4: お待たせしました、昭和のホンダ車ずらっとご紹介。

このアコード3ドアハッチバックは、リアからのスタイルがとてもカッコいいじゃないか!

そうこの斜め後方からは、初代からの正当な進化を感じさせてくれる。アメリカで販売されなかったエアロデッキと、日本で販売されなかった3ドアハッチバック、どっちもスタイリッシュでとっても魅力的。仕向先によってボディを造り分けるなんて、今じゃ考えられないとっても贅沢な時代だったんだ。ドアが沢山あって、背の高いクルマしかない今だからこそ、こんなスタイリッシュなクルマは余計に輝いて見えるね。

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