第3話「経営の危機とマン島出場宣言」
1954年本田技研工業は、折からの不況といくつかの計算違いが重なって、会社設立以来の最大の危機を迎えていた。しかし、大きな経営危機を死に物狂いで解決しながらも本田宗一郎と藤澤武夫は、マン島TTレースという新たな目標に狙いを定めていた。
主な登場人物
■本田宗一郎:Hondaの創業者。ものづくりの天才。
■藤澤武夫:持ち前の誠実さと商売の才能で宗一郎と共に今のHondaを作り上げた。
■川島喜八郎:藤沢の部下であり、本社営業課長。
第3話は、宗一郎と藤澤武夫がタッグを組み、本格的にHondaの開発が進んだ頃の話である。それでは早速シーンを追って見てみよう!
1954年、Hondaの開発はますます進み、排気量146ccから始まったE型エンジンのドリーム号は改良が進められ、220ccエンジンを搭載した4E型まで進化する。
しかし、この4E型には不調が見受けられクレームが殺到。売れ行きが途絶えてしまう。
多額の資金を投じて開発した新商品も、競合の参入や計算違いによって思わぬ不人気に。
さすがの藤澤も同時期に全ての商品が不調になるなど思っていなかった。Hondaは設立以降最大の危機に陥る。
一方、多くの人が4E型の不調の原因は宗一郎が開発したエンジンだと見る中、宗一郎はエンジンが原因ではないと、決して譲らなかった。果たして原因はどこにあったのか…?
藤澤は外注業者全員を集め、部品代を全額払えるだけの金がないことを明かす。この常識では考えられないやり方は、藤澤の誠実さの現れだった。
藤澤は宗一郎に、世界的オートバイのレース「マン島TTレース」への出場を推す。会社存続の危機の中、宗一郎をマン島に行かせる彼の意図とは…?
藤澤は融資を受ける際、頭を下げるような男ではなかった。彼はいったいどうやって人の心を動かしたのか?!
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Honda史上最大の危機に、藤澤の漢気と手腕が光る第3話「経営の危機とマン島出場宣言」はこちらからどうぞ!