「数字の枯渇」に頭を悩ませた当時のホンダ・・・
「C」を頭文字にするモデルコード(製品記号)が作られた1957年ころ、同時期に制定されたのがプロダクトナンバーというものでした。これはホンダ製2輪車のモデル数が増えるにつれ、増加していく部品の管理の問題から制定されたものでした。
なお1957年以前のホンダは、「C10〜」がE型ドリームやK型ジュノオ、「C20〜」がJ型ベンリイ、「C30〜」がSA型ドリームなど・・・という風に区分し、これに4桁の数字を続けることで部品を分類していました。しかし、次第にモデル数が増えていくと4桁では済まなくなることになり、本来改訂を示す「.」=ピリオドに続く数字を使って増加した部品にあてがうまで、状況がひっ迫することになってしまったのです。
そこで1957年以降は数字3桁のプロダクトナンバーを使うことで、当時ホンダの方々は「これならば当分はナンバーの枯渇の心配はなかろう・・・」と考えたのでしょう(現実には、後にさらなる"枯渇"問題にホンダは直面することになるのですけどね・・・)。
300番までは"法則性"があったプロダクトナンバー
3桁のプロダクトナンバーは、001〜198番は50cc〜、200〜249番は125cc〜、250〜298番は250cc〜・・・というように、制定時には排気量区分が判別できるようになっていました。しかし、300番以降のCB750Four(1969年)から473番までは、上述の"法則性"が失われ125〜750ccのモデルが混在し排気量区分の判別ができなくなりました。
法則性が失われた理由・・・これは定かではありませんが、まぁ300番以下の数字が使い尽くされた・・・ということなんでしょうね。プロダクトナンバー制定時には、将来自分たちが750cc、そしてそれ以上の排気量を持つ2輪車を作ることなんて、ホンダの中の人たちは考えていなかったでしょうし、ましてやその車両のプロダクトナンバーのことなんて・・・当然考えてはいないはずです。
なおプロダクトナンバーは、500〜番は4輪車、700〜番は耕運機(テイラー)、800番〜は発電機(ジェネレーター)、900番〜は汎用、915番〜ATCという具合に、2輪車以外にも用意されていました。そして490〜番はホンダのレース部門だったRSCの製品が使用していますが、なぜか「496」が公道量産車のCB400Tに使われたりしています・・・。
1964年から排気量の車名がはじまり、1966年からは「NPS」を採用・・・
1960年代に入ってしばらく経って、1964年からホンダは車名(販売通称名)表記に排気量を用いるようになります。これは一気に全機種を排気量表示に統一したわけではなく、徐々に増やしていっております(1964年のCB125は、CB93というモデルコードの方がクラシックホンダファンにはとおりがいいです。余談ですがプロダクトナンバーは「216」です)。
そして1966年からホンダはNPS=ニュー・パーツ・ナンバー・システムを施行します。このNPSはモデルコードが冒頭に付く旧部品番号(例:C392-4911)を廃止し、11桁の新部品番号(例:14432-300-030)を使用することで、部品番号の枯渇に悩まないで済むようになっているのがポイントでした。
NPSによる新部品番号は、6〜8番目の3桁・・・俗称「中番」にプロダクトナンバーをあてており、ホンダが存続する限り未来永劫使えるように当時考えて作られていました。なおNPSは21世紀になっても使われており、この点はホンダの先見の明の証明といえるでしょう。
1964年の排気量表示の車名変更同様、NPSによって1966年に図面が一気に新部品番号に切り替わったわけではありませんでした。ホンダは1965年からNPSの準備を開始していましたが、新旧部品番号の対照表の新部品番号の翻訳と、図面上の部品番号のアンマッチが結構多かったため、その調整にはかなり手間取ったと伝えられています。
NPSが後世までうまく機能していった一方、数字3桁のプロダクトナンバーの方は、また「枯渇」問題が1970年代に早くも表面化することになりました。様々な分野で飛躍を遂げた当時のホンダは、2輪車だけでなく4輪車などの製品を急激な勢いで増やしていたので、数字3桁ではやはり足りなくなっていってしまったのです・・・(製品が増えることは、無論良いことではありますけど)。
1970年代のプロダクトナンバー枯渇問題にホンダがどのように対応していったのかは、また稿を改めて紹介させていただきます。