3回目を迎える今年は、テーマごとにCategory1から8に分けた各マシンによる展示・デモラン・デモレースを始め、ヨーロッパで注目を浴びているもうひとつのF1グランプリ「マスターズ・ヒストリック・フォーミュラ1」のデモンストレーションレースを初開催するなど、これまで以上に魅力的なイベントとして開催します。
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【Category1】 LEGEND of Formula1
1967年 COOPER MASERATI T86
それまではプライベートチームにシャシーを供給していたクーパーが、1955年から本格的にF1に参戦を開始。1957年はエンジンをドライバーの後方に搭載するマシンを投入。このミッドシップレイアウはその後F1の主流となった。1959年・60年にドライバーズ、コンストラクターズ(製造者)のダブルタイトルを獲得。1966年からマセラティのV12エンジンを搭載し、1967年はヨッヘン・リント、ペドロ・ロドリゲスがステアリングを握り活躍した。
1970年 Lotus 72C
当時フロントに配置されていたラジエターをボディサイドに移し、ブレーキをインボード化。全体をウエッジ・シェイプ(楔形)にした革新的デザインで登場。この年マシンは72B、72Cと進化しながらヨッヘン・リントが4勝、エマーソン・フィッティパルディが1勝を記録する活躍を見せた。
ロータス72は1977年まで活躍し、2度のドライバーズチャンピオン(1970年・72年)、3度のコンストラクターズチャンピオン(1970年・72年・73年)を獲得した。
1976年 McLAREN M23
1973年にデビューしたマクラーレンM23は当時としてはスタンダードなコンセプトで作られたマシンだったが、改良を重ねながらトップ争いを展開。1976年ジェームス・ハントがチームに加入すると、フェラーリのニキ・ラウダと激しいチャンピオン争いを展開した。この年富士スピードウェイで行われた最終戦、雨の中ラウダがレースを棄権するとハントは3位フィニッシュ。逆転で初のチャンピオンを獲得した。
1977年 Wolf WR1
1977年F1に参戦したウルフは、その開幕戦アルゼンチンGPにウルフWR1を投入するとジョディ・シェクターのドライブでデビューウィンを飾った。ボディ全体が楔形のウェッジシェイプ形状でダウンフォースを稼ぎ出し、かつ軽量・コンパクトに仕上げられた名車だ。この年シェクターは3勝を記録。最終戦の日本GP(富士スピードウェイ)ではスタート直後に2位に浮上し、決勝のベストラップも記録するなど速さを見せ、日本のファンの印象に残っているマシンだ。
1981年 Lotus 88B
ロータス78によってもたらされたグランドエフェクトカー、サイドポンツーン内のウイング形状でダウンフォースをもたらす空力思想は瞬く間にF1の主流となったが、それをさらに進化させたのがロータス88だ。ドライバーが乗るモノコック部分とダウンフォースを発生させる部分を分離させた、いわゆるツインシャシーと呼ばれるもの。革新的なマシンだったが、レギュレーションに合致しないと判断され、1度も決勝レースを走ることなく終わった幻のマシンだ。
1982年 Alfa Romeo 179C
1976年、チームにエンジン供給する形でF1に復帰したアルファロメオは1979年からワークスチームとして参戦。水平対向12気筒からV型12気筒エンジン換えた179を投入。1981年にはマリオ・アンドレッティがチームに加わった。1982年にかけてアルファロメオは179C、179D、179Eと3種類のマシンを参戦させ、1981年の最終戦ラスベガスGPでアンドレッティが3位入賞。アルファロメオにF1復帰後初の表彰台をもたらせた。
2003年 Ferrari F2003-GA
長い低迷の時期を過ごしたフェラーリは1996年ミハエル・シューマッハと契約し、再びトップチームへの道をスタートさせた。1999年、16年ぶりのコンストラクターズタイトルを獲得すると、2000年にはシューマッハがフェラーリ21年ぶりとなるドライバーズチャンピオンを獲得。その後もタイトルを獲得し続け、黄金期の2003年にシューマッハ、ルーベンス・バリチェロのコンビで戦ったのがF2003-GA。シューマッハが自身6度目のドライバーズタイトルを獲得した。
2010年 Ferrari F10
2010年のフェラーリはF10を投入。ルノーから移籍してきたフェルナンド・アロンソと、チーム5年目を迎えたフェリペ・マッサのラインナップでシーズンを戦った。開幕戦でアロンソがいきなり優勝すると、第2戦以降も4回の優勝を含む上位入賞を続けチャンピオン争いを繰り広げた。残念ながらレッドブルのセバスチャン・ベッテルと4ポイント差のランキング2位となったが、フェラーリの強さを見せつけるシーズンとなった。
今もなおF1グランプリを開催する鈴鹿サーキット。世界有数のクラシカルサーキットにおいて、レジェンドFormula1のサウンドが響き渡ります。
【Category2】 Group C
メーカーの威信をかけて開発されたモンスター“GroupC”。今なお伝説として語られるマシンたちが、現代のサーキットに復活します。
1983年 NISSAN SILVIA TURBO C Nichira March 83G
1983年からスタートした全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)シリーズに合わせてニッサンが投入したシルビア・ターボC。1983年の鈴鹿1000kmでは星野一義が耐久王者ポルシェ956が持つコースレコードを一気に7秒以上も短縮する驚異的なタイムで予選ポールポジションを獲得するなど、存在感を見せつけた。
1985年 MCS・Guppy
数々のレーシングカーを制作してきたムーンクラフトが1983年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に参戦させたマシン。大パワーターボエンジンのC1クラスに対し自然吸気エンジンのC2クラスマシンだったが、1983年の鈴鹿1000kmではポルシェ956、トヨタ83CなどのC1マシン相手に総合3位に入る大健闘を見せた。
1985年 TOYOTA TOM'S 85C-L
1983年からグループCマシンによるJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)がスタートし、トヨタは83Cを投入。シリーズは初年度からポルシェが強かったが、1985年トヨタは85Cを投入し5チームが参戦。ポルシェ勢と互角以上の戦いを披露した。この年はトムス、童夢チームが85C-Lでル・マン24時間レースに参戦。トムスの中嶋悟、関谷正徳、星野薫組が総合12位に食い込み、日本車として初めてのル・マン24時間完走を果たした。
1986年 Lancia Ferrari LC2 #9 (マルティニカラー)
ポルシェ956、962が引き続き強さを見せる1986年のWSPC(世界スポーツ・プロトタイプカー選手権)に参戦したのが、フェラーリのV8・2.6Lツインターボエンジンをミッドシップに搭載したランチアLC2。ポルシェ勢の牙城を崩すことはできなかったが、第1戦で2位入賞、2度の予選ポールポジションを獲得するなどキラリと光る速さを見せた。ランチアはエンジンを替えながら1991年まで参戦し、通算3勝を記録した。(※写真は同型車)
1986年 NISSAN R86V
NISSANがル・マン24時間レース制覇を視野に全日本耐久選手権シリーズ(後のJSPC・スポーツプロトタイプカー選手権)に投入したのがR86V。V型6気筒3000ccツインターボ、680馬力以上のVG30ETエンジンを搭載。この年星野一義/松本恵二/鈴木亜久里が参戦したル・マン24時間も含め優勝はなかったが、全日本では3戦で予選1位・2位、フロントロウを独占する速さを見せた。
1986年 Porsche 962LM Rothmans ver.
1982年から世界耐久選手権(WEC)が始まるのに合わせてポルシェは956を投入。1984年にはアメリカの耐久シリーズIMSAとWEC用に962、962Cを開発。IMSAでは1985年から3年連続マニュファクチャラーズとドライバーズのダブルタイトルを獲得する大活躍。同時にル・マン24時間レースにも参戦し、1986年ジャガーやザウバーとの戦いを制して1-2フィニッシュを飾った。
1989年 MAZDA 767B
マツダが1988年に全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)参戦用に開発し、4ローター630馬力エンジンを搭載。ル・マン24時間レースにも参戦し7位を記録。マシンは後に787Bへと進化し、1991年のル・マン24時間レースで日本車初の、そして2016年まで日本メーカーとして唯一の総合優勝を飾った。
1990年 NISSAN R90CK #27 FROM A
1990年ニッサンがル・マン24時間制覇を視野にWSPC(世界スポーツプロトタイブカー選手権)に投入したのがR-90CK。同年のル・マン24時間ではマーク・ブランデルのドライブで見事ポールポジションを獲得。同型ながらR-90CP名で参戦したJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)でも大活躍。星野一義/鈴木利男組が鈴鹿1000kmで優勝。長谷見昌弘/アンデルス・オロフソン組が国産車初のシリーズチャンピオンを獲得した。
1991年 MAZDA 787B #202 JSPC仕様車
1991年のル・マン24時間レースで総合優勝を飾った#55がミュージアム入りとなった後、国内の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)レースに参戦するため、ル・マン後に急遽製作された787B-003号車。国内レース専用マシンとして製作されたため、シャシーやカウル類には軽量化が施された。外観上はル・マン仕様には不可欠な高照度ヘッドライトがなく、レナウンカラーのグリーンとオレンジの配置が逆転されているのが大きな特徴だ。
1992年 CALSONIC NISSAN R92CP
マーチやローラと共同でグループCマシンを開発してきたニッサンは、1990年以降、独自開発のマシンを投入。1990年のJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)でニッサンR90CP(長谷見昌弘/アンデルス・オロフソン組)がシリーズチャンピオンを獲得。翌年はR91CPを投入し星野一義/鈴木利男組がタイトル奪取。91CPの発展型R92CPは1992年のJSPCを席巻。YHPカラーの24号車長谷見昌弘/ジェフ・クロスノフ/影山正彦組が開幕戦でポール・トゥ・フィニッシュを飾ると、第2戦からカルソニックカラーの1号車、星野一義/鈴木利男組が驚異の5連勝を飾り、2年連続のチャンピオンに輝いた。
1992年 YHP NISSAN R92CP

1992年 TOYOTA TS010
1985年からル・マン24時間レースに参戦を開始したTOYOTAは、規定変更に伴い1992年からV型10気筒3500cc自然吸気エンジンのTS010を投入し、SWC(世界スポーツカー選手権シリース)に参戦。その開幕戦でいきなりジェフ・リース/小河等組が優勝を飾った。SWC第3戦となったル・マン24時間レースでは雨に翻弄され、さらにはエンジントラブルも抱えたが、その苦難を乗り切り総合2位でチェッカーを受けた。

1994年 TAISAN STAR CARD Porsche962
1994年から始まった全日本GT選手権(JGTC)はスカイライン、フェラーリ、ポルシェなどのGTカーが参戦したが、異色だったのがグループCカーのポルシェ962CをGT仕様に改造して参戦したタイサンスターカードポルシェ962。第3戦でアンソニー・リード/近藤真彦がこのマシンを駆って見事優勝を飾り、リードはシリーズランキング5位に食い込んだ。
【Category3】 60’s Racing Machine
1962年、日本初の本格的な国際レーシングコースとして鈴鹿サーキットが誕生。創生期の鈴鹿サーキットを駆け抜けた名車たちが再び鈴鹿サーキットに戻ってきます。

1963年〜64年 Lotus 23B
F1で有名なイギリスのロータスから1962年にデビューした純レーシングスポーツがロータス23。ロータス23は1963年に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリのメインイベント、国際スポーツカーレース出場し表彰台を独占する速さを見せた。
エンジンをミッドシップに搭載し、低く流麗なスタイルはファン、関係者に衝撃を与えた。その後進化版の23Bが様々なレースに参戦し活躍した。

1966年 Ford GT MkII
アメリカのフォード社が開発したスポーツプロトタイプカー。1964年にフォードGTを発表し、ル・マン24時間レースなどに参戦すると、1966年にはシャシーを強化し、475馬力の7.2リッターエンジンを搭載したMk IIを投入。この年のル・マン24時間レースには8台のワークスマシンが参戦し、3位までを独占する活躍を見せた。一般にはフォードGT40と呼ばれているが、これは車高が40インチ(1016mm)と低いことから付けられた愛称だ。

**1967年 Honda S800*
1963年に発売されたHonda S500は、翌年S600へと進化しモータースポーツシーンで大活躍した。1965年にはS800が登場し、国内外の様々なレースで目を見張る好成績を残している。1967年鈴鹿1000km耐久自動車レースではポルシェ・カレラ6、トヨタ2000GT、ニッサン・フェアレディと戦い総合3、4位を獲得。
特にRSC(レーシングサービスクラブ)チューンのマシンが際立った戦闘力を示し、1968年の鈴鹿12時間レースでは2台のトヨタ7に続いて総合3位に入賞した。

1967年〜68年 Porsche 907
ポルシェは日本でも古くから活躍し1963年の第1回日本GPでポルシェカレラ2が予選ポールポジションを獲得すると、翌年の第2回日本GPではポルシェカレラ4がスカイラインGT勢と、1966年にはカレラ6(906)がニッサンR380と死闘を演じた。1967年にル・マン24時間を念頭に製作された907は、水平対向6気筒(1991cc)、同8気筒(2195cc)の2種類のエンジンがあり、ル・マン24時間レースを始め、数々の国際レースで活躍した。

1968年 Macransa
自動車造りを志していた林みのるが20代の頃にHonda S600をベースに制作したのが「カラス」。マクランサはその発展バージョンで、S600のシャシーに軽量なFRPボディを付け、オープンシーターの形状を採用した。
このマシンは空力の良さから多くの人に愛され、立教大学の学生らによるレーシングチーム「ロッドベンダーズ」を始め、プライべーターの手によって様々なレースシーンで活躍。また、レースカー作りを志す人達に多大な影響を与えた。

1968年 LOLA T70 MkIII
イギリスのローラカーズが1965年に発表した2座席スポーツカーがローラT70 。改良型のT70 MkIIIが、1968年富士スピードウェイで開催された第5回日本グランプリレースに参戦した。有力プライベータの滝レーシングがポルシェとともに投入したもので、ニッサンR381とトヨタ7の戦いに挑む形となり話題になった。
決勝は結果を残せなかったものの、予選では2台のニッサンに続いて長谷見昌弘がドライブするT70 MkIIIが3番手に食い込み、その速さを見せつけた。

1969年 Chevron B16
イギリスのレーシングコンストラクター、シェブロンが1969年に製作したB16は軽量コンパクトな車体にBMWのエンジンを搭載。デビューレースで優勝すると、その後も数々のレースで大活躍した。1971年に製作した発展型のB19は日本のGC(グラチャン)シリーズにも参戦。
これをドライブした田中弘は優勝を含む上位入賞を重ね、シリーズランキング2位を記録。さらに改良されたB21Pをドライブした鮒子田寛が1972年のシリーズチャンピオンに輝いた。

1969年 Coniglio
Honda S800をベースにしたレーシングカーで、S800のシャシーにさらに軽量なFRP製のボディカウルを被せ、エンジンは直列4気筒791cc 70馬力から、845cc 95馬力にチューンアップされた。
1969年に開催された日本グランプリではトヨタ7、ニッサンR382、ポルシェ917などビッグパワーマシンの中で健闘し、GP-Ⅰクラス優勝。総合でも12位に入る速さを披露した。当時プライベートチームに販売されたが、製作されたのは10台だけという、幻のレーシングカーだ。

1969年 NISSAN R382
1968年の日本グランプリをR381で制したニッサンは翌年さらなる高みを目指し、V型12気筒5000ccエンジンを搭載したR382を投入。そのスタイルも背の高いリアウイングが特徴だったR381とは異なり、リアはダッグテールと呼ばれる形状を取り入れ、よりシャープなスタイルとなった。この年の10月に開催された日本グランプリで6000ccへと排気量アップ。600馬力以上のパワーを見せつけ予選で1~3位を独占。決勝も黒澤元治、北野元が1-2フィニッシュを達成した。
【Category4】 モーターサイクルの原点
60年代から70年代にかけて、日本のモーターサイクルスポーツを支えた2輪の貴重な名車が素晴らしいサウンドを奏でます。
※参加車両は決定次第、鈴鹿サーキット公式ウェブサイトでお知らせします。
【Category5】 TIME TRAVEL PARKING
クラシックカー・ビンテージカーの魅力を伝える展示・走行イベント。古き良き時代を築いた懐かしい名車の思い出、あのシーンが鮮やかによみがえります。
来場した方にクラシックカー・ビンテージカーの魅力をお伝えする展示・走行イベント「TIME TRAVEL PARKING」が、より多くのお客様に見ていただけるよう、今年は展示場所を国際レーシングコース内のパドックから、GPスクエアに会場を変更し開催します!現在、参加車両を募集しています。
※11月19日(日)は限定台数に達したため、受付終了しました。
土曜日のみエントリーを受付中です。
※詳細は決定次第、鈴鹿サーキット公式ウェブサイトをご覧ください。
【Category6】 MOTORCYCLE HERITAGE
1972年までに製造されたロードレースマシンが鈴鹿に集結。古き良き時代のロードレースシーンがよみがえります。
※参加車両は決定次第、鈴鹿サーキット公式ウェブサイトでお知らせします。
【Category7】 Hostric Formula Register
Historic Formula Registerは、葉巻型のフォーミュラカーを中心とした1960年代のフォーミュラカーによるヒストリック・デモレース。世界的に盛り上がりをみせ、日本でも2001年から開催され、鈴鹿サーキットでは今年は2年目となります。
フロントにラジエターを配置したフォーミュラカーの原点とも言える、主に1960年代に製造された葉巻型のマシンたちが懐かしのレースシーンを披露します。
※参加車両は決定次第、鈴鹿サーキット公式ウェブサイトでお知らせします。
【Category8】 OPEN Class
1972年 NISSAN SKYLINE 2000GT-R WORKS #15
1972年 NISSAN SKYLINE 2000GT-R WORKS #21
1969年のJAFグランプリ制覇を目指して制作されたのがニッサン・スカイライン2000GTR(KPGC10)ワークスだ。直列6気筒DOHCエンジンは最高230馬力を誇ったと言う。1970年から国内のTSレースで負け知らずの快進撃を続け、3年間で脅威の49連勝を含む52勝を記録。
1972年の15号車は、高橋国光、北野元、黒沢元治らが、21号車は久保田洋史がドライブした。
1997年 SARD MC8R
レーシングカーコンストラクターのSARDが、ル・マン24時間制覇を目指して制作したのがMC8R。1972年に日本車初のル・マン24時間参戦を果たすと、その後グループCカーの時代も含め数々の参戦を果たした後、トヨタMR2をベースに4000cc V8ツインターボエンジンを搭載。
600馬力のパワーを誇るMC8Rで1995年のル・マン24時間レースに参戦。MC8Rはこの後1997年まで参戦を続け、最高総合24位(クラス15位)の結果を残した。
2002年 Dallara GC21
日本のトップカテゴリーのひとつとして隆盛を極めたGCシリーズだったが、1989年をもってその歴史を閉じた。だが復活を望む声も根強く、2002年に新しいカテゴリーとしてGC-21がスタートした。
過去のGCはF2のシャシーを使用していたが、今度はF3の旧型シャシーを使用。これにムーンクラフト社製のオリジナルカウルを装着したもので、エンジンはトヨタのワンメイク。
上記にカテゴライズされない過去の名車たちもRICHARD MILLE SUZUKA Sound of ENGINEに登場。懐かしのエンジンサウンドを披露します。
【Special Category】 Masters Historic Formula 1
ヨーロッパで開催されているMasters Historic Formula 1とコラボレーションし、レジェンドF1約10台によるデモンストレーションを開催します。

1970年 Tyrrell 001
アルミ・モノコック、コスワースDFV、ヒューランドFG400というオーソドックスな構成ながらコンパクトでハンドリングに優れた001。ジャッキー・スチュワートのドライブで第11戦カナダGPに現れた001は、いきなりポールポジションを獲得するという衝撃の公式戦デビューを飾った。
70年はトップを走るも全てリタイアに終わったが、翌71年には南アフリカ、非選手権のカナダとブランズハッチで2位に入るなど活躍。現在001を所有しているのは、世界的なティレル・コレクターとして知られるジョン・ディレーンである。

1972 Brabham BT37
ロン・トーラナックから、新たにバーニー・エクレストンが代表に就任したモータースポーツ・ディベロップメント(ブラバム)が1972年用に用意したマシン。
アルミ・モノコックにジャッド・チューンのDFV、ヒューランドFG400ギヤボックスなど前年型のBT34から基本的な構造は変わっていない。ドライバーはグラハム・ヒルとカルロス・ロイテマン。BT37は2台のみが製作されたが、このシャシーナンバー2は、ロイテマンのレースカーとして第5戦ベルギーGPでデビュー。第11戦カナダGPではBT37としてのベストリザルトである4位を記録している。

1974 Hesketh 308B
ヘスケスは、大富豪でレース好きの貴族、アレキサンダー・ヘスケス卿が設立したレーシング・チームで、気鋭の新人ジェームス・ハントを擁して1973年からF1へと進出。74年からポスルスウェイト設計のオリジナル・マシン308を投入し、4月にブランズハッチで行われた非選手権のBRDCインターナショナル・トロフィーで優勝したほか、公式戦で3度の表彰台に立つなどの活躍を果たした。
74年に308として製作されたシャシーナンバー1は、ハントがドライブしBRDCインターナショナル・トロフィーで優勝した個体そのもの。シーズン後半にサイドラジエター、フォワード・ウイングなどを装備した308Bにアップデートされた。

1974 Lotus 76
ロータス72の後継車として1974年に発表。トーションバー・サスペンションやインボードブレーキなど72から流用した部分も多かったが、デルタ形のアルミ・モノコック、複葉式のリヤウイングなど、軽量化や空力性能の向上に力が注がれていた。
新機軸としてヒューランドFG400に電磁クラッチを組み合わせ、シフトノブのボタンでクラッチ操作を可能としたセミオートマ・システムを搭載。ステアリングシャフトの左右に左足用、右足用のブレーキペダルを配した4ペダル式を採用することで、ドライバビリティの向上を狙ったが南アフリカGPで使用されたのみでお蔵入りとなった。通常の3ペダルMTに戻されるも、戦闘力不足から非選手権を含む7レースに出走しただけで、72Eに替えられてしまった。このシャシーナンバー1は、4レースに参戦したものの、目立った成績を残すことができなかった。

1975 Maki F101C
マキF101Cは、日本初のプライベートF1チームとして1974年から挑戦を開始したマキ・エンジニアリングが1975年シーズン用に用意したマシン。
前年のドイツGPで大クラッシュを起こしたため、モノコックこそスペアのシャシーナンバー002を使用しているが、その内容は74年のF101Bとほぼ同じ。資金難からヨーロッパ・ラウンドのみのエントリーとなり、イギリスGPとオランダGPで鮒子田寛、ドイツGPとオーストリアGPでトニー・トリマーがドライブするも全て予選落ち。8月にディジョンで行われた非選手権スイスGPで唯一トリマーが13位完走を果たしている。このF101Cはマキ撤退後イギリスに残されていた1台で、何人かのオーナーの手を経て現在に至る。

1975 Williams FW04
1969年にプライベーターとしてブラバムBT26AでF1挑戦をスタートしたフランク・ウイリアムズ・レーシングカーズ。その後、紆余曲折を経て73年からはオリジナル・マシンを製作しコンストラクターとしての活動も開始する。FW04はウイリアムズが1975年用に用意したマシンで、スペインGPで登場。DFVとFG400を組み合わせた典型的な“キットカー”であるものの第11戦ドイツGPでラフィーが予選15位から値千金の2位でフィニッシュ。チーム創設後初の表彰台を獲得した。このシャシーナンバー2は、最終戦アメリカGPで、女性ドライバーとしてF1史上初の入賞記録を持つレラ・ロンバルディが24位で予選通過を果たすも、決勝レースはトラブルのためスタートできなかった。

1976 March 761
量産レーシングカー・コンストラクターとして活動したマーチが1976年シーズン用に用意したマシン。前
作751のロングホイールベース仕様というべきもので、741以降のマーチF1同様、モノコックなど主要パーツをF2と共用している。
当初ワークスからはビットリオ・ブランビラ、レッラ・ロンバルディ、ハンス・ヨアヒム・シュトゥックの3台が参戦。第2戦南アフリカからロニー・ピーターソンが加入し、4台体制になった。総合性能ではライバルに及ばなかったが、ストレートスピードの速さを活かし、ピーターソンがオランダGPでポールポジション、イタリアGPで優勝を飾るなど、随所で活躍をみせた。この761は、ブランビラがドライブしていた車両で、非選手権のレース・オブ・チャンピオンズで4位に入ったほか、オランダGPで6位に入った経歴をもっている。
本リリースでは「RICHARD MILLE SUZUKA Sound of ENGINE 2017」に現時点で参加が決定しているマシンをご案内いたします。
ぜひ今後も参加車両が続々と発表されるので、お楽しみに!