鈴鹿8耐におけるヨシムラ復権の嚆矢
振り返れば1990年代半ばころの鈴鹿8耐は、プライベーター冬の時代と言えました。過去のTT-F1レギュレーションに比べ、改造範囲の狭い750ccスーパーバイク・レギュレーションになれば参戦費・開発費が少なくなる・・・という発想はおとぎ話的なもので、実際はより多くの資本力があるファクトリーチームが、有利になるルール改正でした。
創意工夫で打倒ファクトリーを目指すプライベーターチームにとって、スーパーバイククラスになってからの鈴鹿8耐は、参加する意義が見出しにくいレースになってしまいました。そんな中、コンストラクター系プライベーターたちの想いをくんで、創設されたのがXフォーミュラ系のクラスでした。
1,000cc以上の「メガ・スポーツ」をベースとするマシンによる参加・・・という門戸の拡大により、ファクトリーのスーパーバイク勢による戦いとは別の、プライベーター同士の戦いにちょっとした注目が集まることになりました。そこで名門ヨシムラは、1999年に発売されるとともに世界的に好評を博したスズキGSX1300R隼をベースとするXフォーミュラマシンを同年に製作。全日本選手権、そして鈴鹿8耐への参戦を開始しました。
1999年は鎌田学/小倉直人組にヨシムラ・スズキGSX1300Rは託され、2度のサイレンサーバンドの破損・・・そしてサイレンサー破損という幾多のトラブルを克服し、総合16位(クラス優勝)という成績をおさめました。なお同年は全日本選手権でも、鎌田がXフォーミュラクラス王者に輝き、ヨシムラ復権の第一歩となりました。
2000年は小倉がテスト中に事故死するという悲劇がありましたが、急遽起用された出口修が全日本選手権で活躍。鈴鹿8耐でもショーン・ジャイルスと組み、総合6位(クラス優勝)という輝かしい業績を刻みました。
2001年からヨシムラはスズキGSX-R1000をベースに変更したので、GSX1300R隼はレーシングマシンとしての役目を終えることになりました。2002年はGSX-R1000でプロトタイプ、2003年以降は現在に至るJSB1000クラスで鈴鹿8耐を戦うことになりますが、ヨシムラ復活の狼煙として1999、2000年に活躍した隼の勇姿に、今も想いを馳せるファンは少なくありません。