次々と黒人たちが殴り倒されていくニュース映像が全国に流れ、テレビの前の全米7,000万人が衝撃を受ける。
「肌の色など関係ない。人は皆平等だと信じるならば共に行進しよう」キング牧師の呼びかけに、全国から続々と人々が集まってくる。翌日、黒人と白人、男と女、大人と子供がしっかりと腕を組み、彼らは再び歩き始めた─。(公式HPより)
人種差別撤廃に命を賭けた偉人
若い人は、キング牧師を知らない、という人も多いかもしれない。もちろん僕も生前のキング牧師を知らないわけで、歴史書やドキュメンタリーなどを通して彼の偉業を理解しているだけだ。
キング牧師は言うまでもなく黒人である。活躍した時期は1960年代。黒人に対する人種差別の撤廃に、人生のすべてを費やしたのがキング牧師だった。
いまでこそ黒人を大統領を選出している米国だが、キング牧師の時代には、公共の場での黒人への差別はあからさまに行われていた。
リンカーン大統領によって奴隷制が廃止されたのは1863年1月1日だったが、それから100年経っても、憲法で認められているはずの”人権”すべてが黒人に適用されているわけではなかった。黒人の人口の2%しか選挙権を持っておらず、公共の場で白人だけしか入れない場所がそこらじゅうにあった。だから白人と変わらない、国民としての当たり前の権利を求める。いわゆる公民権運動が起こった。
キング牧師はそのリーダーだった。
当時、キング牧師以外にも公民権運動を指揮する黒人リーダー達はいた。例えばブラックパンサー党のマルコムXのように、必要とあらば暴力を含む全ての手段(by all means)で権利を勝ち取るべきという、過激な行動を辞さない指導者も多かった。
しかし、キング牧師は、マハトマ・ガンジー同様に、あくまで非暴力を貫き「交渉、デモ、抵抗」を持って、黒人の公民権を認めさせようとした。白人の中にも、黒人への人種差別を不当であると考える正しい性根の持ち主も数多くいることを信じ、彼らの良心に訴えたのだ。
そして、マルコムXでさえ、最終的にはキング牧師との協調を望むようになるのだが、マルコムXは1965年2月に暗殺される。キング牧師も1968年4月4日に同じく狂信的な白人の手により射殺されてしまう。
それでも彼らの命を賭けた闘いは少しずつ実を結び、やがて白人をも巻き込み黒人の公民権を認めるべきだという全米の国民の総意を生んでいくのだ。
キング牧師がいなければ、オバマ大統領もいないのである。
”人間” マーティン・ルーサー・キング・Jr.の伝記映画
本作は、初めてのキング牧師の伝記映画である。
彼を単に聖人として描くのではなく、時として弱音も吐くし、複数の女性との醜聞に関する”事実”(ジョンソン大統領がFBIを使って、盗聴を含むさまざまな手段でキング牧師を追い込もうとしていたらしい)も紹介されている。もちろん僕は、それらがどうあれ、キング牧師の業績を貶めることはできないと思う。
マルコムXを描いた映画『マルコムX』 が公開されたのは1992年だ。それから四半世紀近くたって、ようやくこの作品ができたというのは、なんとも不思議な話だ。
ベルリンの壁の崩壊に、テレビによる情報公開と共有の機会が広がったことが大きく寄与したことはよく知られているが、公民権運動においても、キング牧師らに率いられた黒人達が悪意ある白人たちの暴力に蹂躙されながらも、必死に耐えて、暴力で対抗することなく、人間としての尊厳を守ろうと努力する姿がテレビに放映されたことで、全米の良識ある人たちの心を強く動かした。
彼らはそのときそのときのメディアをうまく活用することで、世間を動かそうとしたのだ。
例えば、1981年に開局されたMTVは、当初白人のロックミュージシャン専門チャンネルであり、マイケル・ジャクソン以前には、全米に黒人アーティストのPVをヘビロテに流すようなことはありえなかった。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」が全ての黒人アーティストに広くドアを開けることになった。つまり、我々がよく知るマイケル・ジャクソン以前には、目に見えない差別が存在した。それほど昔のことではないのである。
いまではインターネットがあり、ソーシャルメディアがあり、モバイルがある。強力なメディアとテクノロジーの普及が、世界の民主化を進めている。
しかし。
いままさに、人種差別的な発言を辞さない大統領候補が台頭する米国を見ていると、キング牧師が抱えていた憂鬱は、決して昔のことではないのだ、という気がしてくる・・。