19世紀に創業し、あまたの栄光を勝ち得たイギリスの雄 (オートバイ@モーターマガジン社)
1885年にドイツからイギリスのロンドンに渡り、貿易業を始めたS・ベットマンがトラ イアンフの創業者だ。ベットマンの会社は商品として自転車を取り扱うようになったのだが、トライアンフというのはもともとはその自転車に彼が付けた商標名だった。そして販売だけでなく、自転車の製造に乗り出すことにしたベットマンが、1887年にコヴェントリーに移転して設立した新会社がトライアンフ・サイクルで、この会社が現在のトライアンフの前身となり、1889年には自社製の自転車の生産を開始している。
貿易業の中で取り扱っていた商品の1つである自転車に目を付けた創業者のおかげで現在のバイクメーカーへの道を歩み始めたトライアンフ。貿易商から自転車メーカー。自転車メーカーからエンジン付き自転車メーカー。バイクメーカーと進む中で、まずは他社製品を売り、その次に自社製品を生産してみるそうやって見よう見まねでやってみて、自分の物として進化させていく技術は本当に素晴らしいと思う。誰もが知っているようなバイクメーカートライアンフもそういう地道なところから現在のポジションに至ったのかと何だか親近感が沸いてきます。
1908年にはマン島TTレースでJ・マーシャルによって単気筒クラスで優勝、さらに名声を高めた。1914年に開戦した第一次世界大戦でもイギリス軍などで軍用車として使用されたが、過酷な戦場でも高く評価される。しかし第一次世界大戦終結後、ニューモデル開発が進まなかったことで業績が低迷。1921年の高性能を追求した「モデルR」も、高価だったために販売不振。1929年の世界恐慌でさらに打撃を受け、結局1936年にトライアンフのオートバイ部門は実業家のJ・サングスターに売却される。
レースでの快進撃からの、戦争での軍事利用、そして経営不振。戦前からある殆んどのバイクメーカーが辿ってきた道を例外なくトライアンフも辿る事となり、その結果売却される事となる。売却というとそのメーカーの今までの歴史が消滅してしまうようなマイナスのイメージを持ってしまうが、その売却先の実業家の手腕で経営状態を持ち直し、命を吹き返した新生トライアンフが誕生する事となる。こう見ると、人との出会いって重要なのだと改めて考えさせられる。
1945年に戦争が終わると、トライアンフも一般向けモデルの生産を再開。当初は戦前モデルや軍用車がベースだったが、1948年に なるとISDTでイギリスチームが活躍したことを記念したオフロードモデルの「TR5トロフィー」、1949年にはスピードツインの排気量を650ccとして大幅にパワーアップした「6Tサンダーバード」といった新たなスポーツモデルが登場。1951年にサングスターの手からBSAグループ傘下となっていたが、この頃アメリカ輸出が始まり、ハーレーとは一味違った本格的なスポーツバイクとして人気を集めるようになる。
戦後、下火になるバイクメーカーが多い中、アメリカにまで進出する勢いのトライアンフ。今まで無かったスポーツバイクとしての地位を確立していった。
ところが1960年代、日本製オートバイの世界進出によってトライアンフ黄金時代が陰りはじめる。その凋落を決定的にしたのは、1969年の世界初の市販4気筒スポーツ、ホンダCB750FOUR登場だ。もはやトライ アンフは世界最高の一台ではなくなってしまったのだ。
トライアンフのスポーツバイクとしての快進撃に歯止めをかけたのが、まさかの日本企業だった事にビックリ。そして、そのままトライアンフの歴史に幕を閉じる結果となってしまう。
現在のトライアンフは、商標権、生産権を手に入れていた実業家によって、新生トライアンフとして蘇った形で存在している。無くなってしまうにはかなり惜しい存在であるトライアンフは、何度も窮地に立たされる度手を差し伸べてくれる人たちによって、歴史を紡いできた、人との出会いによって存在し続ける素敵な会社だったのです。