ヨーロピアン初のデイトナ200制覇、そして世界GP500ccクラスで2連勝。
世界ロードレースGP開幕前のデイトナ200マイルは、アメリカ最大のロードレースイベントであり、多くのモーターサイクルファンの注目を集める一戦でした。そんなデイトナ200で、大排気量で大パワーを発生するスズキ、カワサキの2ストローク3気筒750ccを破って、2ストローク2気筒の350ccマシンで勝利したヤーノのことは、当時世界のメディアに大きく扱われました。
ヤーノは大胆なハング-オフ・スタイルで、アグレッシブにコースを攻めるライダーでした。しかし妻として、そしてチーム員としてヤーノに常に帯同していたソイリは、彼の走りに怖さを感じたことはなかったそうです。ソイリの目には、フィンランド時代にアイスレースのキャリアを積むことで彼はハング-オフ・スタイルを完全に自分のモノとしており、マシンを常に制御下においていることがわかっていました。
また、プライベーター時代、常に自分のマシンは自分で完璧にメンテナンスしていたヤーノは、単なる「乗り屋」ではなくモーターサイクルを速く走らせるために必要なすべてを、エンジニアリング的にも理解するタイプのライダーでした。レース毎、決勝前の夜は遅くまで自分のマシンを完璧に仕上げることに腐心し、作業に没頭していたヤーノを間近に見ていたソイリは、そのことを一番理解していた人物と言えるのでしょう。
そして1973年のGPシーズンが開幕。ヤーノは初戦のフランスと第2戦のオーストリアで250/500ccをダブルウィン。3戦目の西ドイツGPでは500ccはリタイアに終わるものの、250ccではクラス3連勝となる勝利を記録。多くのファンは、ヤーノのヤマハYZR500が王者MVアグスタを破り、新しい最高峰クラスチャンピオンになることを期待していました。
モンツァの悲劇・・・永遠の別れ。
5月20日、快晴の下で行われたイタリアGP(モンツァ)。レース前の練習走行で、ヤーノは主催者にコース路面の一部のアスファルトが荒れていることをクレームとして伝えました。しかし、決勝当日の朝、ホテルの部屋で目覚めたヤーノは冷静な普段の彼に戻っていました。そして、とあるミュージカルの歌を口ずさむヤーノ・・・音楽に興味がないヤーノが普段しないことをするのを不思議にソイリは思いました。
迎えた250ccクラス決勝レース。ソイリはスタートグリッドの路面上に、オイルが2滴落ちているのを発見しました。そして、ヤーノもすぐにそのことに気付きました。前のレースで車両から漏れたオイルが処理されていなかったのです。
不安を覚えたソイリは、ヤーノに向かって投げキスをしました。ふたりの目があった刹那、ヤーノはソイリに「大丈夫だ」という意味でのウインクをしました。これがふたりが、最後に交わした「会話」になるとは、その時は誰も思わなかったでしょう。
押しがけでスタートしたレースは、まず西ドイツのディーター・ブラウンが先行、そしてイタリアのレンツォ・パゾリーニ、そしてヤーノが続きました。間もなく、モンツァに詰めかけた10万人の観衆は奇妙な光景を目にしました。ブラウンとマリオ・レガが戻ってきた後、ジョン・ドッズが逆走でスタートに戻ってきたのです。そしてチャス・モーティマーとミック・グラントは、後ろにライダーを乗せて帰ってきました。そしてビクター・パロモの声に、皆は何が起こったのかを知らされることになりました。「大変だ! パゾリーニとサーリネンが死んでしまった・・・」
高速のカーバ・グランデでパゾリーニの乗るマシンの後輪がスリップ。それを避けきれずに後続が多重クラッシュ・・・14台によるこの悲劇的な事故により、イタリアのスターライダーのパゾリーニと、ヤーノは命を落とすことになりました。
サイレンが鳴り響く中、空に立ち込める火災の煙を見ながら、ソイリは大変なことが起こったことを理解しました。しかし冷静に事態を把握しつつも、ソイリの心は張り裂けんばかりに動揺してもいました。初めて出会ってから11年。そして結婚してから1年と半年・・・共に同じ時間を密接に過ごしてきたヤーノを失ったソイリは、自分の半分を失ったような喪失感を覚えたことを、後に語っています。
残されたソイリはその後も、この喪失感と闘い続けなければなりませんでした。ヤーノと過ごした場所であるサーキットという場所を彼女は愛していましたが、タイヤのゴムやガソリンの匂いなど、彼との思い出を強烈によみがえらせるこの場所に、近付くことを彼女はやめました。しかし、日常の暮らしの中でも、葬儀を思い出させる教会の音、そして救急車のサイレンは否応なく聞かされることになり、モンツァの悲劇の記憶を呼び起された彼女はしばしば苦しめられることになりました。
永遠のふたりの絆。
家族の支えもあり、ヤーノを失った喪失感から立ち直ったソイリは、フライト・アテンダントという職業を得ます。自分ではコントロールできない飛行機に乗ることが嫌いだった完璧主義者のヤーノのことを思い出し、自分が飛行機に乗る職業に就いたことを可笑しく思えるほど、その頃には彼女の心は回復していました。
1977年にソイリは再婚し、ふたりの娘の母にもなりました。2003年には、ヤーノの死から30年経ったモンツァの地を訪ね、事故現場となったカーバ・グランデにも足を運んでいます。すっかり傷は癒えたと思っていたソイリですが、固く握った娘のカティアの手を離せずにいた自分に彼女は気付かされます。「自分にとっての、"ゴルゴタの丘"(キリストが磔にされた場所)に立った心境でした」と彼女は当時を振り返り語りました。
さらに時が過ぎた2012年に、彼女は再びこの場所を訪れました。その時は2回目ということもあり、最初の時のような動揺に彼女は襲われることはありませんでした。そして2013年に彼女はイタリアのペーザロで行われた「ベネリ・デイ」に参加しました。パゾリーニとヤーノはともにベネリのDOHC4気筒GPマシンに乗ったキャリアがあり、その縁を振り返るアトラクションで、ソイリはパゾリーニ夫人とともに登場したのです。
1970〜1973年の間、ヤーノはグランプリ出走46回で約1/3の15勝を記録。そして1/2以上の32回も表彰台を獲得しています。プライベーター時代を含めてこの成績ですから、もしヤーノが1973年のあの事故以降もキャリアを重ね続けていたら、数多くのレジェンドライダーの成績に匹敵する数字を残していたでしょう。
「彼は完璧に近いライダーでしたが、競争者としての本能、そして勝利への強烈な意志が、彼を破滅に導いてしまいました」とソイリはヤーノを振り返ります。しかし、ソイリはヤーノの人生をこうも振り返っています。「多くの人が、彼のように数多くの良い思い出を人生の中で得られるわけではありません」。ヤーノとソイリの、互いへの愛、そして尊敬の念は、きっと永遠のものなのでしょう。
余談ではありますが、最後にこんなエピソードをひとつ。イタリアには熱狂的なヤーノのファンクラブがあったことは前編で記しましたが、そんなヤーノ・ファンのひとりであるエンツォ・トゥルーリは、1974年に生まれた息子にヤルノ(Jarno)という名前を授けました。成長したその子・・・ヤルノ・トゥルーリはF1ドライバーとなり、2004年にモナコGPで1勝を記録しています。