近代スーパースポーツで主流の並列4気筒エンジンに組み合わされる排気系として、4-1の集合管はバイク乗りであれば誰もが知るメジャーなパーツです。では、それを最初に作ったのは? と問うた場合、日本人の多くは「POP吉村!!」と答えると思いますが、ホントのところはどうなのでしょうか・・・? ちょっとそのルーツを調べてみました。

きっかけがホンダCB750FOUR・・・なのは確かでしょう

2輪用4-1集合管・・・4本のエキゾーストパイプが、最終的に1本のマフラーにつながるものを4-1集合管と定義すると、アメリカのインディアン4気筒やベルギーのFN4気筒など、4-1集合管自体は第2次世界大戦前のモーターサイクルにも採用例は結構多いです。

1913年型FN4気筒。ベルギーの2輪車メーカーだったFNは、20世紀初頭から4気筒エンジン搭載車を製造販売していました。

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ただ、これら古典的4気筒車に採用される4-1は、それぞれの気筒から等しい長さの管(等長管のエキゾーストパイプ)がのび、マージ型コレクターを介してマフラー側パイプにつながる・・・という近代4-1集合管のように、排気を使って高パフォーマンスを引き出す・・・という設計思想と構造はありません。

そんな古典車と近代車の排気系を混同しないように、ここでは等長管のエキゾーストパイプ4本、マージ型コレクター、そして1本のマフラー部を持つ近代の2輪用排気系を「4-1集合管」というふうに表記したいと思います。

近代の4-1集合管を生んだきっかけになったのは、ホンダが1969年に販売したCB750FOURでしょう。1970年代以降、高級スポーツバイクのエンジンレイアウトとしての「並列4気筒」を定着させたこの大ヒット作は、今から半世紀前に登場して世の中を驚かせました。

ホンダ ドリーム CB750FOURは、1969年の8月10日に日本国内でも販売され、一躍人気のモデルとなりました。なお当時の価格は¥385,000でした。

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ヨシムラの前にも、4-1集合管は存在した・・・?

日本では、近代の4-1集合マフラーをこの世で初めて製作したのはPOP吉村こと吉村秀雄氏・・・というのが定説となっています。

アメリカのホンダディーラー、クラウスホンダの依頼でヨシムラは4-1集合管を開発。1971年のAMAロードレース(カリフォルニア州オンタリオスピードウェイ)に参戦したクラウスホンダのCB750FOURレーサーには、ヨシムラ製4-1集合管がついていました。こちらは翌1972年デイトナ200マイルに出場した、クラウスホンダのCB750FOURレーサーです。

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しかし、何事にも「世界初」をうたうと「ちょっと待ったぁ!!」という物言いがつくのが世の常? です。アメリカにもイギリスにも、ホンダCB750FOUR用の4-1集合管を最初に作ったのは私!! を主張する人はいたりします。

1960年代のカフェレーサーブーム期に、トライトン(トライアンフ2気筒をノートン・フェザーベッド・フレームに搭載する混成車)製作やロードレース活動で活躍したドレスダのデイブ・デジェンスは、すでに1970年には独自フレームにCB750FOURエンジンを搭載したロードレーサー用に、4-1集合管を5セット作ったとコメントしています。

1972年のボルドールを制した、ロジャー・ルイス/ジェラルド・デブロック組のジャポートホンダ。当時ホンダの耐久レース活動を担ったフランスのジャポートは、1965年と1970年のバルセロナ24時間を制したドレスダに、ホンダCB750FOURエンジンに組み合わせる耐久レーサー用フレームと排気系の製作を依頼しました。

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海外のCB750FOURファンが聞いたという、ドレスダのD.デジェンスの証言によると、デジェンスはドレスダの近所にある4輪レースカーショップにあったフォード製レーシングエンジンから、4-1集合のアイデアと得た・・・とのことです。

1970〜1983年の間、フランスをベースにホンダ車での耐久レース活動を展開したジャポートは、当時ドレスダに耐久レース車開発を依頼していました。そこでデジェンスはコーナー中のバンク角を深くするため、そして軽量化のために4-1集合管は有効・・・と考えたそうです。

ただ、前述の4輪レースカーショップのアドバイスを受けて作った試作集合管をCB750FOURエンジンにつけたところ、中速域および高速域でエンジンのパフォーマンスがアップしたことは想定外だったのか、とても驚いたと語っています。

カタチを作ったことも大事ですが、設計思想を生んだ過程がより大事ですね?

一方アメリカでは、チューニングパーツメーカーとして著名なRCエンジニアリング(現RCフューエルインジェクション)を1970年に創業したラス・コリンズが、初の近代集合管の生みの親であることを主張しています。ドラッグレース界のレジェンドであるコリンズは、1969年にCB750FOURが発売されるとすぐに1台を購入。そしてすぐにCB750FOURをドラッグレーサー用に使うとともに、4-1集合管を製造販売するようになりました。

RCエンジニアリング創業者のラス・コリンズ。ジ・アサシン、ソーサラー(写真)、そしてAT&SF=アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェと、ホンダCB750FOURエンジンを作ったドラッグレーサーで、コリンズは数々のレコードを残しました。

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この4-1集合管が好評だったこともあり、コリンズは勤めていたバイクディーラーを辞め、自身のイニシャルを冠したRCエンジニアリングを1970年に創業することになりました。残念ながらリサーチ力不足で、極初期のRCエンジニアリング製CB750FOUR用集合マフラーがどんなものだったのか、それがわかる資料を発見することはできませんでした・・・。ただ、CB750FOURエンジンを使ったドラッグレーサー開発時に、燃料系に採用するインジェクションの評価のために計測機を自作するほどの優れた技術を持っていたコリンズですから、彼は4-1の有用性を十分理解していたでしょう。

初期のヨシムラ4-1集合管のデザインを踏襲する製品は、今もヨシムラで購入することが可能です。写真はCB750FOUR用のレーシング手曲ストレートサイクロン(¥138,000・税別)です。

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・・・ということで、ヨシムラが世界初かどうかは? ではありますが、ひとつ確かなのはヨシムラは1960年代にはすでに、4-1集合管の有用性に気付く経験を得ていたことです。

ヨシムラは1960年代半ばから2輪だけではなく、4輪レーシングエンジンをチューニングするようになります。1966年に登場したホンダS800(4気筒DOHC2バルブ)をチューニングしたヨシムラの活躍はそのころの大きなトピックでしたが、フォーミュラ用ブラバムシャシーに搭載するS800エンジン用に4-1集合管を作ったとき、幸運にもヨシムラは4-1集合管がパフォーマンスを向上させることに気付いたのです。

四国自動車博物館に過去展示されていた、ヨシムラチューンのエンジンを搭載するホンダS800。

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ヨシムラ初のS800用4-1集合管の製作の目的はまず軽量化でしたが、エンジン性能がアップしたことは想定外だったようです(ちょっとドレスダの、ジャポート用4-1試作集合管のエピソードと似てますね)。このときに得た経験があってこそ、ヨシムラは1970年代初頭にすぐ有効なCB750FOUR用4-1集合管を作ることができたのでしょう。

"手曲げ"のヨシムラの集合管は、その登場から半世紀近い今も根強い人気があります。

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非常に興味深いのはCB750FOURが登場した1969年直後から、洋の東西を問わず多くの在野のチューナーたちがCB750FOUR用4-1集合マフラー作りをしよう! と同時多発的に知恵を働かして手を動かしたことです。一方本家ホンダは1960年代のRC系GPレーサーの開発経験があったためか、RC同様に1気筒あたり1本の排気系にこだわり、CB750FOURのレーサーを製造しました。

1970年デイトナ200マイルで勝利した、ディック・マンとホンダCB750R。いわゆる"4本出し"の排気系を採用していました。

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このあたりは、経験が邪魔をする・・・ということなのでしょうか? まぁ4-1集合管が絶対正義!! というワケではありませんが、大メーカーではなく在野のチューナーたちが現在に至る集合管のトレンドを生み出したというのは、なんともロマンを感じるエピソードにも思えます。

なお4気筒に限定しない場合ですと、メーカーが手がけた近代集合管の最初の例は3気筒のトライアンフ/BSAと思われます。AMAのルール変更で、弁方式カンケーなく750cc上限となって初のデイトナ200マイルレース用(1970年)に、BSA/トライアンフはロブ・ノース製フレームを採用した3気筒レーサーを投入します。

ロブ・ノース製フレームを採用したトライアンフF750レーサー(写真は後期型の通称ローボーイ)。初期型から等長管のエキゾーストパイプ、マージ型コレクター、そして1本のメガホンマフラーという構成の排気系を採用していました。

pwheelie.blogspot.com

余談ですが、1970年デイトナ200マイルは前出のとおりCB750RのD.マンが勝利しますが、翌1971年のデイトナ200マイルではBSA3気筒が優勝してリベンジを果たします。なおライダーはホンダからBSAに乗り換えたD.マンで、彼は見事200マイル2連勝を果たしたわけです。