"跳ね馬"といったら、乗り物好きな皆さんはすぐにフェラーリを思い浮かべると思います。ちなみに、初期のドゥカティのデスモ・レーシングマシンには同じような"跳ね馬"が描かれていたりするのですが、これは何故だかご存知ですか・・・?

ヒントは設計者の故郷にあり・・・?

ドゥカティといえば"デスモ"(強制弁開閉機構)・・・というくらい、そのメカニズムはドゥカティの"アイコン"的なものになっていますが、そもそもドゥカティがデスモを採用したのは、ロードレーサー開発のためでした。

ドゥカティのデスモ機構を設計したのは、1954年にドゥカティに加入したファビオ・タリオーニ技師でした。タリオーニはボローニャとラヴェンナの中間にあるルーゴという町の生まれなのですが、この町で生まれた人物にフランチェスコ・バラッカという第一次世界大戦のエースパイロットがおりました。

第一次世界大戦でイタリアのエースパイロットとして活躍したフランチェスコ・バラッカ。愛機スパッドの機体には、「跳ね馬」が描かれています。なおバラッカは、この写真が撮影された1918年に亡くなっています。

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バラッカの愛機の機体には跳ね馬(キャバリーノ・ランパンテ)が描かれておりました。そしてタリオーニは同郷の英雄へのオマージュとして、初期のドゥカティデスモレーサーの車体に跳ね馬を描いていたのです・・・。なおドゥカティレーサーに跳ね馬が描かれたのは1956年が最初で、最後は1961年ころ・・・という短い期間でした。

1956年のドゥカティ"トリアルベロ"。カムシャフトが3本という、ユニークなデザインのデスモ機構を採用する125cc単気筒マシンです。このモデルが記念すべき、ドゥカティ初の「デスモ」搭載車でした。

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1960年に英国選手権250cc王者となった若きマイク・ヘイルウッドのために開発された、ドゥカティ250ビチンドリカのフェアリングにも、このように「跳ね馬」が2頭描かれています。このマシンは3本のカムシャフトを採用するデスモ機構のシリンダーヘッドをもつ、並列2気筒エンジンを搭載していました。

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F.タリオーニとE.フェラーリの縁・・・

一方フェラーリの跳ね馬のお話は諸説ありますが、社の公式見解はこちらのYouTube動画にあるとおりですね。創設者のエンツォ・フェラーリが、バラッカの親族からこのシンボルを使うこと許可を得た、というものです。

The genesis of the Ferrari brand / La genesi del marchio Ferrari

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エンツォは1923年、フランチェスコの父であるエンリコ・バラッカ伯に会っています。そしてその後、フランチェスコの母であるコンテッサ パオリーナから、「息子の跳ね馬を貴方の車につけなさい。それは貴方に幸運をもたらします」と言われることになります。

跳ね馬はバラッカのオリジナルエンブレムどおり黒色のまま、そして背景にモデナを示す黄色をエンツォの考えで採用したフェラーリのエンブレムは、フランチェスコの母の御神託? どおり、フェラーリの発展の守り神になったのかもしれませんね?

なおタリオーニとエンツォ・フェラーリの間には親交があり、ドゥカティVツインの伝説となった1972年のイモラ200でポール・スマートとブルーノ・スパジアーリが1-2で勝利したあと、エンツォ・フェラーリはドゥカティ社へ祝電を送っています。

イモラ200勝利の祝電を、E.フェラーリはドゥカティ社宛に送っていました。

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じつはイモラ200に勝利したドゥカティVツインデスモレーサーは、レース本番の1ヶ月ほど前に急ごしらえされたものでした。そしてドゥカティはフェラーリのモデナコースを借り、フランコ・ファルネとスパジアーリのライディングで750デスモレーサーの急速な熟成を図ったのです。

なお750デスモレーサーのテスト時、同じ場所ではフェラーリF1のテストが行われていました。エミリオ・ロマーニャの2&4業界は狭い世界であり、タリオーニとエンツォ・フェラーリはその前から互いを知っていたのですが、タリオーニ作の750デスモレーサーの仕上がりに、エンツォは大いに感銘を受けていたそうです。

1972年イモラ200マイル。右が優勝の優勝のP.スマート、左が2位のB.スパジアーリが乗るドゥカティ750デスモレーサーです。市販車の750GTをベースに作られた、初の750ccVツインレーサーでした。

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このときエンツォはタリオーニに、こう告げました。「モデナの門はいつでもキミのために開いてある。もちろん、ノックも不要さ」と。つまり、タリオーニの才能を認めたエンツォは、フェラーリで彼のためにポストを用意するオファーをしていたわけです。

この名誉あるオファーは胸の内にしまっておいた・・・と後年タリオーニは雑誌のインタビューに答えています。それは非常に強力な誘惑でもありましたが、結果としてタリオーニは常に財政的に厳しい状況にあったドゥカティを見捨てることはありませんでした。

しかしオファーを断りはしたものの、タリオーニとフェラーリとの縁は続くことになりました。レースに必要なスペシャルパーツを諸般の事情で内製できないとき、タリオーニはクルマをマラネロまで飛ばし、フェラーリに協力を要請しました。

そのときもエンツォは快くタリオーニを迎え、「ここのドアはいつでもあなたのために開いている。そして必要なパーツはすべて用意されている・・・」と伝えたそうです。もしもタリオーニがフェラーリに移籍していたら・・・どんなフェラーリ車が生まれたのか・・・ちょっと夢想してしまいますね(ドゥカティはもっと早く買収されるか、破綻して消滅していたかもしれませんが・・・?)。

ご存知のとおり、今でもフェラーリは「跳ね馬」をシンボルとして使ってますが、ドゥカティでは使われることがなくなって久しいです。イタリアを代表する2&4のふたつのブランドに、同じ空の英雄にまつわるエピソードがあるというのは、ちょっとロマンを感じさせられますね・・・。