オートバイ/モーターマガジン社
4月20日は、2001年世界ロードレースGP250ccクラス王者となった加藤大治郎が2003年に亡くなった日です。グランプリを舞台に大活躍した加藤大治郎は、2000年と2002年の鈴鹿8耐で優勝しています。そのふたつの大会の模様を、振り返ってみたいと思います。

VTR1000SPWの8耐デビューウィンを達成した第23回大会

2000年大会は、ホンダのファクトリー耐久レーサーが従来の750ccV4から、1,000ccVツインのVTR1000SPWにスイッチした最初の年でした。この年ホンダファクトリーが用意した3台のVTR1000SPWは、コーリン・エドワーズ/バレンティーノ・ロッシ組、伊藤真一/鎌田学組、そして宇川徹/加藤大治郎組が乗ることになりました。

決勝レースはポールポジションからスタートしたヤマハの吉川和多留/芳賀紀行組が先行しますが、16周目の130Rで吉川が転倒したことにより戦線離脱。その後はホンダRVF/RC45を駈る玉田誠/アレックス・バロス組、カワサキZX-7RRの柳川明/井筒仁康組、エドワーズ/ロッシ組、そしてスズキGSX-R750の梁明/北川圭一組が先頭集団を形成しますが、35周経過時点でアクシデントによりペースカーが介入。レースは再スタートの仕切り直しになりました。

予選やスペシャルステージでは、ファクトリーのヤマハYZF-R7やカワサキZXR-7RRに遅れをとったキャビンホンダのVTR1000SPWだが、決勝は宇川/加藤組のシュアな走りで、周回数記録を更新しての勝利をおさめた。 オートバイ/モーターマガジン社

再スタート時にVTR1000SPWに乗る宇川は一気にスパートをしかけ、唯一これに付いて行ったカワサキの柳川/井筒組と終盤まで激しいバトルが続きました。しかし、残り2時間で井筒が転倒したことにより、この攻防戦に終止符が打たれる結果となりました。宇川/加藤組は215周の周回記録を更新し独走優勝。宇川にとっては3度目の鈴鹿8耐制覇、そして加藤大治郎は1994年の初参戦から一度も表彰台に上がれずにいましたが、悲願の嬉しい初勝利となりました。

表彰台の中央で喜びを爆発させる宇川徹(左)と加藤大治郎。この後ふたりは、レザースーツを脱いで、観衆にそれをプレゼントした。 オートバイ/モーターマガジン社

第25回大会は終盤の雨にも関わらず、219周の最多ラップを更新!

前年までに鈴鹿8耐5年連続優勝を達成したホンダは、2002年の大会に「220周」という大きな目標を掲げました。3台のVTR1000SPWを託したチームのひとつ、加藤大治郎/C.エドワーズ組は、通常7回というピットインを1回減らした「6回ピット」という作戦を見事成功させて優勝。目標には届かないものの、219周という周回新記録をほかの2台のVTR1000SPWを駆る玉田誠/岡田忠之組(2位)、アレックス・バロス/武田雄一組(3位)とともに達成し、ホンダVツインの表彰台独占というホンダにとって最高の結末に結びつけました。

表彰台でじゃれあう加藤大治郎とC.エドワーズ。「コーリンとは体格差もあり、どうかな、と思ったけれど逆に彼のほうがこちらに合わせてくれたり、コンビネーションはバッチリでした」 オートバイ/モーターマガジン社 

宇川徹の欠場で、急遽C.エドワーズとペアを組むことになった加藤大治郎だが、そんなハプニングの影響を感じさせない息のあったチーム力を発揮し、ホンダの鈴鹿8耐6連勝を達成した。 オートバイ/モーターマガジン社

加藤大治郎にとって、2002年の勝利は2度目の鈴鹿8耐の勝利でしたが、勝者への賞賛を一身に受けるウィニングランは、この時が初めてでした。「ウィニングランは初めてだったので、僕自身も興奮して楽しめました。観客のすぐそばで喜びを共有できるなんて、なんどもこうした体験はしてみたいですね」と彼はレース後のインタビューでコメントしています。

夜の帳が下りた鈴鹿サーキットで、チェッカーを片手にホンダVTR1000SPWとともにウイニングランを披露する加藤大治郎。 オートバイ/モーターマガジン社

この2002年に、グランプリ最高峰のMotoGPに昇格した加藤大治郎は、4ストローク990ccマシン優位の状況のなか、2ストロークV4のホンダNSR500を駆って奮闘します。第3戦スペインGPでは2位を獲得するなどの活躍から、第10戦チェコGPからは4ストロークのホンダRC211Vが与えられることになり、そのレースで再び2位という好成績をおさめました。第13戦パシフィックGPではポールポジションを獲得。結果はリタイアでしたが、翌2003年は加藤大治郎がMotoGPチャンピオン争いに加わることになるだろう・・・と予想する者は少なくありませんでした。

しかし、2003年MotoGP開幕戦の日本GPで、加藤大治郎を載せたRC211Vはシケインで大クラッシュ。ヘリコプターで病院に搬送されるものの、意識不明の状態が2週間ほど続き、悲しくも4月20日にこの世を去ることになりました。もし彼が生きていたら、MotoGPの歴史、そして鈴鹿8耐の歴史も、今とは違う記録が残されることになっていたのかもしれません・・・。ともあれ、2002年の鈴鹿8耐の勝利は、天性のロードレーサーである加藤大治郎にとって、最後の勝利となってしまったのです。