河原良雄
自他共に認めるホンダマニア・元Motor Magazine誌編集部員のフリーランスライター。
連載:ホンダ偏愛主義
1970〜80年代の軽自動車事情
1985年9月、ホンダはトゥデイの登場をもって11年ぶりに軽自動車市場にカムバックした、とよく言われる。が、これは乗用車っぽいクルマで、と言うお話。ホンダが軽乗用車から撤退したのは1974年10月。直前に迫った排出ガス規制への対応や車検制度導入などで“軽”のメリットが薄れていたためだった。
とは言っても農作業や配達では軽商用車は欠かせぬ存在。だから軽トラックはTN-7で細々ながら継続していた。さらに1977年には軽トラックのアクティを、1979年には軽ワンボックスのアクティバンを投入している。
そうこうしているうちに1979年のスズキアルトが“軽革命”を起こす。商用車に物品税がかからないことに目を付け、格安とした4ナンバーのボンバン(ボンネットバン)を乗用に供することにしたのだ。ボンバンゆえの縛りはあった。後席は前席後方の半分より前になければならないとか、あくまでも荷室が優先。が、使い方はせいぜい2人乗り、乗せても後席に子供2人と割り切れば「これで十分」となり、たちまち大人気となったのである。
室内長たっぷり MM思想が詰まった可愛いらしいホンダ車
そこでホンダは“勝負”に打って出る。それがトゥデイだった。そのスタイリングは数あるホンダ車の中でも秀逸である。マンマキシマム メカミニマムのMM思想を突き詰めた短く低いノーズと、アッと驚くロングルーフ、何よりキュートな丸目が可愛かった。
ロングなホイールベースとルーフのおかげで室内長はたっぷり。となればたとえ商用車でも後席の足下は必要十分。ドアも大きいから後席の乗降性は良好で、リアサイドウインドウの荷室保護バーがなければ「乗用車?」となるのは間違いなかった。そして1本ワイパーもスーパーカーっぽくて新鮮だった。
ボンネットを開けると、そこには驚きの世界が。アクティから流用したEH型の直2 SOHCエンジンがほとんど寝かせた状態で収まる。
このMM思想を極めたレイアウトは後にホンダの社長となる川本信彦氏の手になるもの。このボンネット内は1988年2月のマイナーチェンジでE05A型の直3SOHCに換装する際に“戦場”となる。
何しろ角目になったとは言えボディの左右幅に変更はなし。ゆえに本来2気筒だったスペースに3気筒を押し込むのは至難の業なのは推して知るべし。ボンネットを開けた瞬間「よくぞ!」と感嘆したのを憶えている。
そしてエンジンのみならずミリ単位で補器類を取り回していたのだ。1988年3月には乗用タイプを投入。ここで本来の余裕ある後席が実現する。ホンダライフを生産中止してから“13年半ぶり”でホンダが軽乗用車市場に戻って来たのだった。この頃には軽自動車はボンバンから“フツー”のセダンへと移行していたのである。
初代トゥデイはボンバンに始まったがホンダの新たな軽自動車作りを提示したと言える。エンジンは2気筒にしろ、3気筒にしろ、360cc時代にあったような高回転高出力は狙わず、トルク重視に転じていた。それは1990年3月に“660”へと軽自動車規格が変更になっても変わらなかった。
またトゥデイは1990年4月にビスカスカップリングを用いた4WDを追加する。この“生活4WD”への展開はホンダの軽自動車の裾野を一気に広げることとなる。
そう、今に繋がるホンダの軽自動車の流れは初代トゥデイから始まったのだ!