11月16日(土)と17日(日)の両日、鈴鹿サーキットで開催される「SUZUKA Sound of ENGINE 2019」には、世界ロードレースGP500ccクラスで活躍した3人のチャンピオンがゲストとして来場します! 今回はその1人、ヤマハとホンダで最高峰クラスを4度制覇したレジェンドライダー、E.ローソンを紹介します!

ヤマハで3度、ホンダで1度、500ccタイトルを獲得!!

1949年から続く世界ロードレースGPの歴史の70年間で、最高峰クラス(500cc、MotoGP)において異なるメーカーのマシンに乗りタイトルを獲得することができたライダーは、わずか5人しかいません。

その5人とは・・・ジェフ・デューク(ノートン、ジレラ)、ジャコモ・アゴスチーニ(MVアグスタ、ヤマハ)、エディ・ローソン(ヤマハ、ホンダ)、バレンティーノ・ロッシ(ホンダ、ヤマハ)、そしてケーシー・ストーナー(ドゥカティ、ホンダ)です。この事実は、いかに異なるメーカーのマシンに乗り、異なるチーム環境の中で最高峰クラスを戦い抜き、チャンピオンを獲得することが難しいかの証左と言えるでしょう。

2015年の第1回から久々に、今年の「SUZUKA Sound of ENGINE 2019」に来場するエディ・ローソンは、1984、1986、1988年をヤマハYZR500、そして1989年をホンダNSR500に乗ってチャンピオンになったアメリカンライダーです。

1990年、前年ホンダNSR500に乗って得た「1」番をつけたヤマハYZR500(0WC1)で、E.ローソンは同年の500ccクラスを戦いました。このシーズン、ローソンは序盤7戦ノーポイントだったこともあり、ランキングは7位にとどまりました。

www.motorcyclemuseum.org

フラットトラックで培った、1,000ccスーパーバイクのライディング技術

1958年3月、カリフォルニアに生まれたローソンは、父と祖父がレースを楽しむような人物だったこともあり、7歳のころからモーターサイクルに乗るようになりました。最初に乗っていたのはヤマハの80ccでしたが、12歳のころにはフルサイズの車格のマシンで、アスコットやコロナのフラットトラックでレースをするようになります。

ヤマハ2気筒でフラットトラックを走るE.ローソン。

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1970年代初頭、南カリフォルニアの有望なフラットトラック選手のひとりに数えられるようになったローソンは、次第にロードレースの分野でも頭角を現すようになります。そして1978年にはAMAのエキスパートライセンスを取得。フラットトラックでは彼の非力なヤマハ2気筒は、ハーレーダビッドソンXR750相手に苦戦をしますが、20歳になった1979年のロードレースシーズンでは、後にGPでのライバルとなるフレディ・スペンサーに次ぐ250GPシリーズ2位を獲得しています。

1979年の暮れ、彼の才能を認めたカワサキは、翌年のスーパーバイクライダー起用のためのテストにローソンを呼びます。当時の1,000ccスーパーバイクは大馬力ではありますが、現代のものに比べると大きく重いマシンでした。しかしフラットトラックでマシンコントロール術を会得していたローソンは、その操縦を楽しいと表現するまで、パワースライドするマシンを操りました。

カワサキのファクトリーライダーとして、E.ローソンは1981年、1982年のAMAスーパーバイクを連覇しました。

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1980年シーズン、ローソンは惜しくもスーパーバイクタイトルはスズキのウェス・クーリーに奪われますが、250GPのタイトルは見事に奪取します。そして1981年はスペンサー、1982年はマイク・ボールドウィンというホンダに乗る強敵を下して、2年連続スーパーバイク王者に輝きます(なお1981年には、250GP王座も防衛を果たしました)。

ステディ・エディと呼ばれた男

1983年からは、マールボロ・アゴスチーニ・ヤマハの一員として、世界ロードレースGP500ccクラスにフル参戦を開始。チームメイトのケニー・ロバーツと、ホンダNS500に乗るスペンサーが激しいタイトル争いを繰り広げたこのシーズン、未勝利でランキング4位という成績に終わりました。

しかし、ロバーツの引退でエースとなった1984年シーズンは、開幕戦の南アフリカGPで初優勝を記録。その後通算4勝、表彰台を逃すのはわずか3回、そして全戦ポイント獲得という安定した速さで初の500cc王座を獲得しました!

画像: 1984年シーズン、ヤマハYZR500(0W76)を駈るE.ローソンの勇姿。 global.yamaha-motor.com

1984年シーズン、ヤマハYZR500(0W76)を駈るE.ローソンの勇姿。

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1985年シーズンは、ホンダのスペンサーが250、500ccダブルタイトル獲得という大活躍をしたシーズンで、ローソンは3勝しながらも500ccクラスランキング2位に甘んじることになりました。しかし1986年は7勝を記録してライバルたちを圧倒。自身2度目の500cc王者に輝きました。

画像: 1986年、ヤマハYZR500(0W81)でタイトルを獲得したE.ローソン。 global.yamaha-motor.com

1986年、ヤマハYZR500(0W81)でタイトルを獲得したE.ローソン。

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1987年は5勝を記録するものの、ワイン・ガードナー(ホンダ)、ランディ・マモラ(ヤマハ)に次ぐランキング3位に終わりますが、1988年は7勝を記録するとともに全戦完走という安定ぶりで、ヤマハでの3度目のタイトル獲得に成功しました!

そして同年シーズンオフ、ローソンは長年属したヤマハを去り、ホンダに移籍するという発表で世界を驚かせました。1989年、ローソンは台頭著しいウェイン・レイニー(ヤマハ)やケビン・シュワンツ(スズキ)ら、後輩ライダーたちと激しいタイトル争いをします。この年のローソンの勝利数は4勝でしたが、ボイコットしたイタリアGP、そして第2戦オーストラリアGPの5位以外の全レースで表彰台獲得・・・という偉業的な安定感により、見事2年連続・通算4度目の最高峰王者になりました。

画像: 1989年シーズンの最多勝はK.シュワンツ(スズキ)の6勝でしたが、シーズンとおして好成績を残したE.ローソン(ホンダ)が、タイトル防衛を果たしました。 en.wikipedia.org

1989年シーズンの最多勝はK.シュワンツ(スズキ)の6勝でしたが、シーズンとおして好成績を残したE.ローソン(ホンダ)が、タイトル防衛を果たしました。

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1990年は再びヤマハ陣営に入ったローソンですが、怪我の影響が大きく響きルーキーイヤーの1983年以来の未勝利でシーズンを終えました。そして翌年からはイタリアのカジバへ移籍。2年目の1992年の第9戦ハンガリーGPでは、カジバ初のGP優勝を成し遂げました。

なお1992年シーズンを最後に、ローソンはインディライツなど4輪レースへ転向します。しかし1993年にはデイトナ200マイルにヤマハから参戦し、1986年以来の自身2度目の優勝をしています。

画像: 2015年の第1回目の鈴鹿サウンドオブエンジンで、K.シュワンツ(スズキ)と共演したE.ローソン(写真右)。 soundofengine.lrnc.cc

2015年の第1回目の鈴鹿サウンドオブエンジンで、K.シュワンツ(スズキ)と共演したE.ローソン(写真右)。

soundofengine.lrnc.cc

2015年の第1回「SUZUKA Sound of ENGINE 2015」では、ローソンはホンダのNSR500に乗りました。果たして今年の秋、ローソンはどのようなかたちで、我々の前にその勇姿を披露してくれるのでしょうか? 

こちらはヤマハコミュニケーションプラザのFacebookページに掲載された10月14日の投稿ですが、う〜ん、これは・・・なにはともあれ!? 鈴鹿サウンドオブエンジンでのローソンの活躍に期待しましょう!!

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