そもそもエリック・ビューエルが自身の名を冠したバイクを作るきっかけになったのは、ハーレーダビッドソンのエンジニアをしている自分が、ライバルメーカーのバイクに乗ってロードレースを楽しんでいるのはいかがなものか? という葛藤からでした。そして生まれたのがビューエルの初作「RW750」なのですが、この車両には英国の"あの映画"にも登場した、"あのバイク"との縁があったのです・・・。

知る人ぞ知るバートン、という英国のマニュファクチャラー

先日、ビューエルブランドの復活と、ビューエル創始者であるE.ビューエルの今をお伝えしましたが、そもそもビューエルが自分の名を冠したバイクを作るきっかけとなったのは、個人的な"事情"によるものでした。

1950年に米国ペンシルバニア州ギブソニアに生まれたエリック・ビューエルは、ピッツバーグ大学に進学しました。若い頃からバイクが好きだった彼は、日中にバイクの整備士をして働き、夜間は工学部の学生としてエンジニアリングを学んでいました。

1979年に工学の学位を得たビューエルは、ハーレーダビッドソンに就職。ハーレーダビットソンではV4プロジェクト「ノバ」に関与し、FXRシリーズのシャシー改善などに関与。仕事のかたわら、ビューエルはライダーとしてロードレースを楽しみ、AMAのスーパーバイクにドゥカティで参戦。また当時あったAMAフォーミュラ1カテゴリーには、最強マシンだったヤマハの市販レーサー、TZ750に乗ってエントリーしていました。

ハーレーダビットソンの社員なのに、ライバルメーカーのドゥカティやヤマハのバイクでロードレースを楽しんでいいものか・・・。そんな罪悪感が当時の若きビューエルを苛みました。その悩みの解決策としてビューエルが注目したのは、英国の小さなコンストラクターが作る「バートン」というバイクでした。

映画「シルバー・ドリーム・レーサー」に登場したバートン

そもそもバートン=Bartonとは1970年代、バリー・ハートとトニー・ライアンという2人の若者が、英国ウェールズに作ったコンストラクターです。バリーとトニーの2人の名前の最初の3文字を組み合わせたのが、バートンという屋号になったわけです。

バートンの初作は、俗にいう"サンパチ"ことスズキGT380エンジンをベースにした水冷3気筒500ccでした。バートンエンジンをスポンドン製フレームに搭載する「スパルトン」は、1976年のノースウェスト200でマーティン・シャープとフランク・ケネディが1-2フィニッシュを飾り、大いに注目を集めることになりました。

その後バートンは、新たに2ストロークのスクエア4レイアウトのエンジンを開発。"フェニックス"と呼ばれることになるこのエンジンは、当初フォーミュラ750用の750cc版として作られましたが、GP用500ccやオープンクラス用850ccも作られました。

当時のバートンのカタログ。

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このバートン・フェニックスを搭載したバイクは、英国で1980年に公開された「シルバー・ドリーム・レーサー」という映画作品にも登場しています。主人公が乗るバイク…主人公の兄が航空宇宙工学を応用して作ったGPプロトバイクが、バートン・フェニックスなのです(もちろん、劇中では現実に存在するバートン・フェニックスとしては紹介していません)。

わずか2台のみが作られた、ビューエルRW750

資本力に乏しいバートンのフェニックスは、ロードレースのソロ部門では際立った成功をおさめることはありませんでしたが、サイドカー用のパワーユニットとしては、1986年マン島TTサイドカーBクラスでナイジェル・ローラソン/ドン・ウィリアムズ組の優勝など、いくつか好成績を残していました。

N.ローラソンのバートン・フェニックス搭載サイドカー。1970年代半ば〜1980年代初頭にGP500ccクラスで流行したロータリーディスクバルブ式水冷2ストローク・スクエア4のフォーマットを採用しています。

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余談ですが、バートンの内のひとり・・・バリー・ハートはチーフエンジニアとして英国のCCMアームストロングに移籍し、後のアプリリアのGPの栄光につながるロータックス製2ストロークタンデムツインのロードレーサー開発を担当することになっています。

話を本題に戻しましょう。ドゥカティやヤマハよりははるかに無名なバートンならば、ハーレーダビットソンに在籍している自分が使っても感じる罪悪感は少ない・・・ということで、ビューエルはバートン・フェニックス750を入手します。

しかし、「つるし」状態のバートン・フェニックスに満足を覚えなかったビューエルは、車体は自身の手で新作することを選択。またエンジンに関しても、クランクシャフトから上のパーツは新作することになりました。

初の"ビューエル"車であるRW750初号機と、E.ビューエル(左)。

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ビューエルのモディファイにより、バートン・フェニックスのエンジンは163馬力まで最高出力を向上。またカリフォルニア工科大学の風洞実験で形状を決めたフェアリングの効果で、タラテガ・スピードウェイでのテストでは時速178マイル≒286.46km/hの最高速をマーク!

元々のバートン・フェニックスから車体もエンジンも大幅に変わっていたため、ビューエルはこのマシンを自作として改名することにしました。その名は「RW750」・・・なおRWはロード・ウォリアーを意味するものですが、ちょっと「中二病」的ネーミングでもあり、オールド・プロレス・ファン的には、ちょっと親近感を覚えてしまいます(笑)。

バートン・フェニックスをベースに、作り上げられたビューエルRW750。

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RW750の出来に気を良くしたビューエルは、すでに活動を停止していたバートンから車両とスペア部品などを購入。そしてついには1983年にハーレーダビッドソンを退社し、ロードレーサー製造業者として独立をしてしまいます! 

そもそも会社に気を遣ってバートン・フェニックスを購入したのに、それが原因となって会社を辞めてしまうとは・・・なんとも素敵な転職動機ですね! もっともビューエルの才能を評価していた彼の上司は、ビューエルを長期休暇扱いにして彼の辞表をすんなりと受け取りはしなかったそうです。

しかしビューエルの転職は、ある意味最悪なタイミングでの決意とも言えました・・・。当時アメリカのレースを統括するAMAは、1970年代半ばからのヤマハ750ccクラスマシンの圧倒的支配による、デイトナ200マイルをはじめとするフォーミュラ1の人気低下に頭を痛めており、ロードレースカテゴリーの主流を人気のあるスーパーバイクに移行させることを考えていたのです。

フォーミュラ・ヤマハ化したフォーミュラ1に代わり、1985年からはデイトナ200マイルを量産公道車改造のスーパーバイクカテゴリーで行うことになりました。それゆえにクラス廃止となってしまうフォーミュラ1用に開発されたビューエルRW750は、その存在意義を誕生間もなくして失ってしまいます・・・。

前方2気筒のエキゾーストは車体右側に取りまわされ、後方2気筒のエキゾーストはシートカウル内を通るレイアウト。カリフォルニア工科大学の風洞実験をベースに開発されたフェアリングが、ビューエルRW750の外観の特徴になっています。

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ビューエルの初作であるRW750は、1号機の他にはアメリカン・マシニスト・ユニオン・レーシング・チームが購入した2号機・・・わずか2台だけが作られることでそのモデルライフを終了することになりました・・・。

バートン・フェニックスの車体をE.ビューエルはすぐに捨て、独自設計のチューブラーフレームをRW750に与えました。マスの集中化、ショートホイールベースの高剛性シャシー、そしてエアロダイナミクスの追及が、RE750の開発テーマです。

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上述の映画「シルバー・ドリーム・レーサー」は、兄が作った野心的なバイクに乗る主人公が、当時のGP界の王者マシンであるスズキRGたちに挑む・・・というプロットで話が進むのですが、バートン・フェニックスを母体にRW750を作り、強力なライバルとの戦いにチャレンジしようとしたビューエルの生き様は、現実の出来事である分、映画の内容よりもある意味でドラマチックに思えます。

もしも、ビューエルがハーレーダビットソンを辞めてまでも自身のバイク造りに挑戦することがなかったら・・・1987年から2009年までの間、多くのエンスージャストたちに愛された約137,000台のビューエルブランドのストリートバイクたちは、生まれることはなかったわけです。

なおビューエルの初作であるRW750の、2台の内の1台はボナムスのオークションに2018年に出品されておりますが、その落札価格は60,000ドル≒635万7,154円でした。