11月16日(土)と17日(日)の両日、鈴鹿サーキットで開催される「SUZUKA Sound of ENGINE 2019」には、世界ロードレースGP500ccクラスで活躍した3人のチャンピオンがゲストとして来場します! 今回はその3人を紹介するラスト回になりますが、皆さんご存知の"キング・ケニー"こと、ケニー・ロバーツです!

日本車一貫・・・で育ったニュージェネレーションのライダー

1951年の大晦日、ケニー・ロバーツはカリフォルニアに誕生しました。そもそも幼少期のケニーは馬に乗ることが好きな子供でしたが、モーターサイクルには特に関心はなかったようです。彼が初めてモーターサイクルに乗ったのは12歳のときで、友達が「乗れよ!」と勧めたことがキッカケでした。

その時の経験は強烈だったようで、ケニーは父の芝刈り機エンジンを自転車に取り付けて、自分のモーターサイクルを自作したとか!! その後、ケニーの父は日本車のトーハツ50ccを与え、ケニーはフラットトラックレーシングに参加するようになります。

1966年ブリヂストン90にまたがるジャングルスクーターズ店主の古田さん(左)と、ケニー・ロバーツ。2015年の鈴鹿サウンドオブエンジンでの一コマですが、この時パドックにはトーハツランペットCA2もいて、「おー!! 懐かしい!! 俺が最初に乗ったバイクはコレだったんだよ!!」と語っていました。

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トーハツの次にケニーが乗ったのは、輸出専業メーカーとなった国産のホダカでした・・・。改めて考察すると、ケニー以前の著名GPライダーの多くは外国製マシンでモータースポーツを習熟した、という方がほとんどですが、ケニーはトーハツ、ホダカと、キャリアのほとんどを日本製のモーターサイクルとともに積み上げていった・・・新世代のライダーだったと言えるかもしれません。

それはともあれ、ローカルのフラットトラックで頭角を現したケニーは、多くのレース関係者に注目される存在になっていきました。そしてケニーは高校を中退して、プロフェッショナルライダーになることを決意。そして18歳となって、プロとしての出場を認められたその翌日に、サンフランシスコのカウ・パレスでのレースで4位入賞・・・という記録を残しました。

最初にケニーの才能を見出し、レース活動を支援したのは地元のスズキディーラーのバッド・アクスランドでしたが、アクスランドは自分の手元に置いてはケニーの才能を開花させることはできない、と考え、アマチュアレーサーとして活躍していたジム・ドイルにケニーを託しました。

ケニーのマネージャー役を務めることになるドイルは、1971年にケニーを英国のトライアンフに売り込みました。しかし、小柄なケニーはライダーには不適格と判断され、トライアンフはケニーに興味を示すことはありませんでした・・・。

ヤマハとの結びつき

その後ドイルがケニーを売り込んだのは、日本メーカーであるヤマハでした。トライアンフとは対照的にヤマハはケニーのポテンシャルを正しく評価し、若干19歳でケニーはワークスサポートライダーの地位を手に入れることになりました。

当時、ケニーの教育役を務めることになったのは、1969年に世界ロードレースGP250ccクラス王者(ベネリ)になった、オーストラリア人ライダーのケル・キャラザースでした。1970年のシーズン終了後、活動の場をキャラザースはアメリカに移していましたが、1973年にはライダーとしてのキャリアに終止符を打ち、ケニーのAMAでのレース活動のバックアップに専心することになりました。

ヤマハXS650で、フラットトラックを戦うK.ロバーツ。

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1971年にはAMAのルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得し、1972年にはプロのレースでヒューストン・アストロドームのグランドナショナルショートトラックレースで優勝したケニーですが、彼の名声は強力なXR750やライダー布陣を誇るハーレーダビッドソンを相手に、非力なヤマハXS650で名勝負を演じたことでより高まることになります。

"アメリカン・インベイション"の時代を象徴するライダー

1974ば、ケニーはイモラ200、英米対抗戦、そして世界ロードレースGP250ccへのスポット参戦でいずれも好成績をおさめ、その非凡な才能を世界のロードレース界にアピールしました。1973、1974年のAMAグランドナショナル選手権王者となったケニーが、進むべき次の戦いの舞台は世界ロードレースGPの最高峰・・・500ccクラスとなったのは、必然としか言いようがないでしょう。

1978年、ヤマハはキャラザースを中心とするチームのエースとして、ケニーを世界へ送り込みます。この年、ケニーは500cc以外に、250ccやF750クラスにも参加しますが、あくまで目標は最高峰500ccの王者獲得でした。

そして、GPフル参戦初年度の1978年から、ケニーは3年連続で500ccクラス王者に輝きます。1980年代の世界ロードレースGP500ccクラスは、"アメリカン・インベイション"・・・アメリカンライダー全盛期となりましたが、ケニーはそんな時代を切り開いたアメリカ人初のGP王者として、歴史にその名を刻んでいます。

3連覇最後の年、1980年のK.ロバーツとヤマハYZR500(0W48)。近代ハングオフ走法をロードレースに定着させるきっかけとなったのも、キングケニーの偉大な功績のひとつでしょう。

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理由ある反抗・・・? GP界の変化を促進させたケニー

ライダーとしての当時のケニーの活躍を知らないモータースポーツファンは少ないと思いますが、ケニーは当時コースの外でも様々なことに対して戦っていたことを、知らない方も多いかもしれません。1979年はスペインGPのスターティングマネーにまつわる騒動、そしてベルギーGPの路面の安全性に対するボイコットの主導など、ケニーはGPを統括するFIMと度々対立することになります。

さらにケニーはFIMに対抗して、英国のプロモーター企業と組んで新しい世界選手権「ワールドシリーズ」を創設し、GPトップライダーたちとFIMから離脱するという考えを披露します(周知のとおり、これは実現しませんでした)。

FIMにとっては当時のケニーは"反逆児"そのものでしたが、彼の活動の影響で世界ロードレースGPはよりプロフェッショナルなものへなっていったのも事実でしょう。彼の反乱を契機に、FIMはサーキットの安全性向上、そしてライダーへの賞金などの待遇改善に、真剣に取り組むことになったのです。

1981年、スクエア4エンジンを採用するヤマハYZR500(0W54)でシーズンを戦ったケニーですが、この年は2勝に止まりタイトル防衛に失敗します(ランキング3位)。

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1981年のワンシーン。ライバルのバリー・シーン(左)とケニーは、当時数々の好バトルを演じ、ロードレースファンを魅了しました。

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1982年シーズンはホンダが新機軸の2ストローク3気筒GPマシン、NS500を投入。マルコ・ルッキネリ、片山敬済

、そしてフレディー・スペンサー(写真中央)がNS500のハンドルを託されました。ケニーはこの年から、長年使っていたグッドイヤータイヤからダンロップタイヤ、そして第2戦からV4のYZR500(0W61)で戦いますが、シーズン2勝、ランキング4位に甘んじることになりました・・・。
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1983年シーズン、デルタボックスフレームを採用したヤマハYZR500(0W70)に乗るケニーは、ホンダNS500を駆るスペンサーと歴史に残る接戦を展開。勝利数は2人とも同数の6勝でしたが、わずか2ポイント差で栄冠はスペンサーのものに・・・。この年を最後に、ケニーはGPライダーとしてのキャリアを終えることになりました。

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2015年の鈴鹿サウンドオブエンジン以来の登場!!

ケニーが「SUZUKA Sound of ENGINE 」に来場するのは、エディー・ローソン同様に第1回の2015年のイベント以来となります。そのときはケニーがデモ走行で乗るバイクが用意されず、英国のGPマシンコレクターでイベントに参加したクリス・ウィルソンさんのご厚意で、1981年型カワサキKR500にケニーが乗る!! という非常に珍しいシーンを見ることになりました。

「SUZUKA Sound of ENGINE 2015」の珍しいひとこま。KR=ケニー・ロバーツがKR(500)に乗る・・・シーンです!!

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果たして今年の「SUZUKA Sound of ENGINE 2019」では、ケニーが乗るマシンは用意されるのでしょうか・・・? やっぱりモータースポーツファンとしては、ヤマハGPバイクで疾走する勇姿を見ることを期待しちゃいますね・・・。11月16・17日を楽しみに待ちましょう!