監督として、8耐勝利の美酒を味わう
1965年に14歳でレースデビュー、1973〜1974年に2年連続AMAグランドナショナルチャンピオンを獲得。1978年から世界ロードレースGP500ccクラスにフル参戦し、同年から最高峰3連覇の偉業を達成したケニー・ロバーツは、多くのファンから「キング」と呼ばれるグレートな存在です。
そんなケニーが鈴鹿8耐に参戦したのは、GPからの引退後でした。1983年にホンダのフレディ・スペンサーとの激闘の末、世界ロードレースGP500ccクラス・ランキング2位に終わったケニーはGPからリタイアしましたが、この大会ではヤマハFZR750で見事ポールポジションを獲得。会場に居合わせた誰もが、キングのキングたるゆえん、を体感することになりました。
ヤマハの国内エース、平忠彦と組んでの1985年は、あまりに有名なエピソード・・・首位を独走しながらも、残り30分を切ったところでエンジンブローでリタイア・・・に終わりました。翌1986年は、8耐3勝のキャリアを持つマイク・ボールドウィンと、自身のチームのチーム・ラッキーストライク・ロバーツからヤマハYZF750で参戦。予選2位のポジションをゲットしています。
小柄なケニーと、ボールドウィンの体格差の問題から、ライダー交代毎に燃料タンクカバーを交換する・・・というハンデがありました。そして、ライバルのワイン・ガードナー/ドミニク・サロン組(ホンダ)はスタート後1時間で独走状態となる苦しい展開でした。
そんな燃料タンクカバー交代という作業が原因で、キャブレターのブリーザーパイプを潰しエンストしてしまうというミスを犯したため、ショートカットでピットに戻ることになります。そのペナルティは10周という厳しい内容でありました。
この遅れを取り戻すべく、ボールドウィンがチャージをかけますが、S字で転倒! 130周でリタイアという結果に終わってしまいました。
ケニーの鈴鹿8耐は、ライダーとしては2年連続リタイアという成績でしたが、チーム監督としてのぞんだ1987年はジョン・コシンスキー/カル・レイボーンが3位表彰台を獲得。そして1988年はケビン・マギー/ウェイン・レイニー組が優勝という記録を残しています(マシンはともにヤマハYZF750)。