みなさん、こんにちは。
奄美の伝統工芸品「大島紬」の魅力をお伝えするこの連載。前回の記事で、お気に入りの紬は見つけられたでしょうか?

柄の異なる大島紬

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さて、今回は第一回の「紬とは?」に続き、少しずつですが、いよいよ 大島紬の歴史を紐解いていこうと思います。
奄美の特産品にまつわる興味深いミステリー(?)、ご期待ください。

大島紬の歴史は◯◯年前から…?

さて、大島紬の歴史ですが、みなさんはどのくらい昔に誕生したと思いますか?100年?200年?

いえいえ、そんなものではありません。大島紬の誕生は、さかのぼることなんと 約1300年前 になるんです。

奈良東大寺に残る、奈良時代(710-794年)に書かれた献物帳に、「南島から褐色紬が献上された」と記してあるのですが、この南島は他ならぬ奄美大島のことで、献上された褐色紬こそが、大島紬なのです。

そもそも紬のルーツは、インドネシア伝統の織物、 イカット(絣織) と言われており、5〜6世紀頃インドからスマトラ島・ジャワ島を経由し、奄美大島へ伝わったとされています。

インドネシア伝統の織物 イカットとバティック

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 イカット 絣織(かすりおり)とは?
絣(かすり)は、織物の技法の一つで、絣糸(かすりいと)、すなわち前もって染め分けた糸を経糸(たていと)、緯糸(よこいと、ぬきいと)、またはその両方に使用して織り上げ、文様を表すものである。「絣」は日本および琉球の織物を指す用語であるが、これに類した織技は東南アジアをはじめ世界各地にみられ、マレー語で「縛る、括る」を意味する「イカット」(ikat)という語で呼ばれている

せっかく作った紬を着用することができなかった江戸時代

薩摩藩への献上品として庶民の手には届かなかった時代

他の大陸に近かったこともあり、早くから、機織り(はたおり)や養蚕の技術が伝えられた奄美大島ですが、江戸時代(1603-1868)には、奄美大島は薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩政下にあり、特産品である黒糖と共に租税として布を貢納しなければなりませんでした。

さらに、1720年には薩摩藩から「紬着用禁止令」が出されたことがあって、多くの島民にとって、自分で織り上げた紬に袖を通すことは叶わなかったのです。この当時の島民にとって、紬は近くにありながら、遠い存在だったことでしょう。

江戸時代の紬の特徴

ところで、当時の紬は地機(じばた)という機械で織られており、機械といってもほぼ手作業のようなものです。腰にベルトが回されており、そこで経糸の張力が決まってしまうので、織っている間は常に腰をピンと伸ばしている必要があり、かなり骨の折れる作業だったといいます。

ですから、それだけ精魂を込めて作った紬を、自ら羽織ることができない悔しさは、どれほどのものだったのか、当時の島民たちの鬱屈した気分が偲ばれるというものです。

当時使われていた地機(じばた)

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ちなみに、染色は藍や椎、テーチ木(シャリンバイ) の葉や実、樹皮などを用いて行われる草木染めでした。使う植物によって大きく風合いが変わる草木染めですが、この頃は、まだ現代の大島紬のような独特の深い色は出せませんでした。

藍染をしたタオル

テーチ木(シャリンバイ)染めを行った布

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献上品から、高級ブランドとしての特産品への道

こうして、献上品として始まった紬ですが、今の高級ブランド大島紬が完成するまでに、どういう道のりがあったのでしょうか。世界三大織物へと昇華していった秘密とはなんなのでしょう。
このあたりは、奄美のもう一つの有名な特産品である黒糖焼酎にも似た、島民たちのさまざまな努力と想いが交錯する、一つの歴史があるのです。

次の回では、そこに触れていきたいと思います。お楽しみに! (続く)