本田宗一郎と二人三脚でHONDAを支えた名参謀 藤沢武夫。
次のターゲットは米国市場への進出だった。

1959年 スーパーカブの爆発的ヒットで倒産危機を乗り越えたHONDA

1954年のドリーム4Eのリコール問題という一大危機を乗り越えて、HONDAは大躍進を遂げた。
5年後の1959年には、街中が新機種のスーパーカブがあふれんばかりに走るようになっていました。国内で年間40万台を売り、数十億円の売上を実現していたのです。

1959年、HONDAは大躍進を遂げていた

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町中、いたるところをカブは走っていた

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アメリカ市場に打って出るHONDA

しかし、国内の大成功に満足するHONDAではありませんでした。
当時のHONDAの経営を一手に引き受けていた藤沢武夫専務は、より豊かで巨大な市場であるアメリカ市場に打って出ることを決意します。

東南アジアのほうがやりやすいのでは?と訝しがる部下に、藤沢武夫はこう言います。
「アメリカで売れないようならオートバイ企業の将来なんて高が知れている。俺は、本田宗一郎とどこまでいけるか試したいのさ」 と。

「天才の技術が国境を越える。技術が人を結びつける。それがどこまで広がるもんか、試してみてぇんだ」そう言って、藤沢武夫は部下のアメリカ行きを勧めるのです。

腹心の部下 川島営業部長に戦略を打ち明ける藤沢武夫専務

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オートバイそのものにこだわっているわけじゃない。米国市場で売れなければオートバイ事業なんて知れてる。ならば他の商品を作ってもらうように本田宗一郎に頼むさ。

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俺は本田宗一郎とどこまでいけるか試してみたいのさ!

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カネじゃない。夢なんだ!

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アメリカにいけよ!チャレンジだ!

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こうして、藤沢武夫専務は米国市場への挑戦をスタートします。

スーパーカブは一度は米国市場で受け入れられますが、スタイリングの古さが飽きられていると知ると、すぐに新車開発を技術陣に進言します。

カブベースでスポーツタイプのオートバイを開発!

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当時のアメリカのバイク市場はわずか年間6万台程度。
しかも、バイク乗りはヘルスエンジェルのように印象が悪く、車社会のアメリカにあってはアウトロー、マイノリティの乗り物として扱われていました。

それをHONDAは、レジャーやスポーツの友として、若者を中心にリターゲティングして、新たな市場を興したのです!

フル動画はこちらから!

Honda原点コミックVol.4 「いざアメリカへ ~巨大市場を開拓せよ~」

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