しかし!忘れちゃいけないのはHONDAもまた、戦後のスタートアップから始まった、ベンチャー企業だった、という事実です。当然多くの危機を乗り越えてきました。
その中でも最大の試練と言えるのが、1954年。主力商品のドリーム4Eにトラブルが発生し、クレーム続出・売れ行きガタ落ち!
最新の工作機械を大量に購入するなどの設備投資が響き、HONDAはキャッシュフロー面でも最悪の危機に瀕していたのです。
そんなときにHONDAを救ったのは、当時専務だった藤沢武夫。
本田宗一郎から経営の全権を任された藤沢武夫は、本田宗一郎が技術の天才なら、まさしく経営の天才でした。いえ、才能だけでなく、信念と度胸を兼ね備えた真の企業家だったのです。
主力製品のドリーム4Eにまさかのトラブル・・・
1954年、鳴り物入りで発売したはずのドリーム4Eが、ブレーキング時にかぶったり、停止時に勝手にエンストするというトラブルが発生。多くのクレームで販売も低迷、HONDAは最大の危機を迎えます。
原因究明のため、本田宗一郎ら技術チームは寸暇を惜しんで調査を続けます。
結局、エンジンそのものではなく、キャブレターなどとのバランスに問題があったことに気づいた総一郎らは、ついにドリーム4Eのトラブルを解決するのです!
倒産危機に見せた、藤沢武夫のど根性
とはいえ、売上低迷や、リコールによる損失のため、HONDAは手形不渡りの危機を迎えており、倒産リスクは誰の目にも明らかでした。
そんな中、藤沢専務は、社員や外注企業に必死に協力を仰ぎながら、キャッシュフローの改善に努めます。
結局藤沢武夫は、本田宗一郎らが不眠不休でドリーム4Eの改良に成功したことを受け、銀行からの融資取り付けに成功し、経営破綻の危機を回避します。
しかし
彼の凄みは、単にキャッシュフロー戦略に長けていたことだけではなく、同時に思い切りスロットルを全開にして、加速することを本田宗一郎に進言したことにあるのです!
彼はなんと、まだ資金繰りに目処がつく前に、本田宗一郎に対して、当時の世界最高峰のレース「マン島TTレース」への出場を勧めました。
1962年、夢のマン島TTレースを制覇するHONDA
当時のHONDAはまだまだ中小企業にすぎません。
しかし、実際HONDAは、この危機の5年後の1959年にマン島TTレース初出場を果たし、なんとその2年後には125/250ccの2クラスで完全優勝を果たすのです!
さあ、みなさん。
暑いだの眠いだの言っている暇はありません。
世界の本田宗一郎と、彼を支えた名参謀藤沢武夫のように、世界に挑戦する気概を持とうではありませんか!!
この動画を見て、思い切りアドレナリンをあげてください!