1950〜1960年代の米国と旧ソ連の「宇宙開発競争」において、NASAのアポロ計画などにヴェルナー・フォン・ブラウン博士らドイツの優秀な科学者が多大な貢献をしたことは有名なエピソードです。彼らは戦後、ドイツの優秀な科学者をアメリカに連れてくる・・・"ペーパークリップ作戦"の下で獲得された"頭脳"でした。1967年、世界初のヒドラジン燃料電池/NiCad電池ハイブリッド2輪車を作ったカール・コルデッシュ博士は、ペーパークリップ作戦によってアメリカに来た人物のひとりです。

第二次世界大戦後の東西両大国による"頭脳狩り"

第二次世界大戦でナチスドイツが連合国に降伏したのは1945年5月7日ですが、同年7月にアメリカは対日戦の早期集結などを目的とする「オーバーキャスト作戦」を発動しています。この作戦はドイツの知的財産を収奪し、それを兵器開発に役立てることを目的するものです。その後日本が降伏することで第二次世界大戦は終結しますが、同年11月オーバーキャスト作戦からペーパークリップ作戦と改称されたこの計画は続行され、1946年にはトルーマン大統領に正式承認されることになりました。

ペーパークリップ作戦によって、ナチスドイツおよびその併合国の科学者、技術者、研究者1,600人以上が1945〜1959年の間に、アメリカに連れて来られました。1946年10月には旧ソ連が、ペーパークリップ作戦と同様の意図を持つ「オソアヴィアヒム作戦」を実行。後の東西冷戦の主役となる両大国による"頭脳狩り"競争の成果は、1950年代末〜1970年代半ばの「宇宙開発競争」で世界中の人の目に触れることになりました・・・。

世界初の弾道ミサイルであるV2(報復兵器2号)は、戦後の米ソのロケット技術に多大な影響を与えました。米側はフォン・ブラウンら、ソ連側はヘルムート・グレトルップらのV2開発者たちが、それぞれの国のロケット技術開発に関与しています。

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世界初の燃料電池/NiCad電池ハイブリッド2輪車のベース車になったのは?

1950〜1970年代の米ソ宇宙開発競争といえば・・・1965年のジェニミ5号からNASAが宇宙船の照明、空調、通信の電力源に燃料電池を使ったことにも注目が集まりました。燃料電池は1801年に、英国の発明家ハンフリー・デービーが考案。1839年には英国のウィリアム・グローブにより初めて製作されたという、結構古い発明です。

しかし、19世紀末から急速に発展したICE(内燃機関)を利用するエンジン発電機が20世紀に普及したこともあって、燃料電池技術の開発史は目覚ましいトピックがない停滞期を迎えることになったのです。約1世紀におよんだ燃料電池の停滞を打破したのは、英国のフランシス・トーマス・ベーコンでした。

1932年、ベーコンは水素と酸素から電力を得るアルカリ燃料電池(AFC)の開発に成功。その後、米のGEやユナイテッド・エアクラフトが燃料電池改良に取り組みますが、燃料電池は低騒音・低公害という「夢の電源」というイメージを得て、世界各国から注目される技術となったのです。

アポロ宇宙船のスペースモジュールに搭載された燃料電池。

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先述の、ペーパークリップ作戦でアメリカに連れて来られた研究者のひとり・・・カール・ヴィクトル・コルデッシュ博士は、燃料電池をはじめ電池技術の分野で多大な業績を残した人物でした。1922年、オーストリア・ウィーンに生まれたコルディッシュはウィーン大学で化学と物理学を学び、1948年に博士号を取得。そしてペーパークリップ作戦の対象に選ばれたコルディッシュは、1953年からアメリカで働くことになります。

彼のアメリカでの最初の「職場」は米国陸軍信号隊(USASC)で、ニュージャージー州フォート・マンモスにて通信機などの電池研究に従事。その2年後の1955年からはクリーブランドのナショナル・カーバイド社に移りますが、その後同社はユニオン・カーバイド社傘下に収まることになり、彼の研究室はアイダホ州パルマに移転することになります。1960年には、現在世界に広く普及しているアルカリ乾電池の開発者のひとりとして特許を取得し、電池の歴史にその名を残しています。

1.5V・Dサイズ(単一)のアルカリ乾電池は、ユニオン・カーバイド社クリーブランド工場のルイス・アーリー、ポール・マルサル、そしてカール・コルデッシュの3名の特許がベースとなった商品です。マンガン乾電池よりも寿命が長いアルカリ乾電池は、周知のとおり世界中に広く普及することになった製品です。ちなみにシッポがイナズマ状になっているネコのキャラクターは、現代にも残る「エバレディ」ブランドのシンボルです。

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そのほか、コルディッシュがユニオン・カーバイド時代に熱中したのは、燃料電池の開発でした。コルディッシュは米軍およびNASAと共同で、ヒドラジン燃料電池とアルカリ燃料電池を開発。彼が開発した薄いカーボン電極はGMの「エレクトロバン」用、そしてフォードに供給したアルカリ燃料電池にも採用されました。

世界初の燃料電池4輪車・・・1966年にGMが試作した「エレクトロバン」は、コルディッシュの燃料電池技術が採用された作品であり、ユニオン・カーバイド社の燃焼電池を搭載していました。なお最高速は105km/h、航続距離は200km、という性能でした。

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なお世界初の燃料電池4輪車として紹介されているエレクトロバンですが、信頼性の低さと安全上の理由からGM工場敷地内だけでテストされ、公道は走っていないと言われています。そんなエレクトロバンの評判のことが、頭の中にあったのかどうかは定かではありませんが、コルディッシュは1967年に自作の水素燃料搭載車によるデモンストレーション走行を公道で披露しています。

レイクウッドの発明家として知られる彼は、『プレイン・ディーラー』紙(※クリーブランドの地元紙)に「燃料電池は壊れやすいというイメージがあるようなので、バイクに載せて頑丈さをアピールしようと思ったんです」と語っている。

自作のヒドラジン燃料電池/NiCad電池ハイブリッド2輪車にまたがるK.V.コルディッシュ博士。最高速度は40km/hを記録しています。なおロケット推進剤などに使われる無機化合物のヒドラジン(N2H4)は、毒性が強いため毒物に指定されています。

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コルディッシュが製作した燃料電池搭載車は、彼の祖国であるオーストリアを代表する2輪ブランドのひとつ、プフ製のMS25というモペッドをベースにしていました。望郷の念からプフを選んだのか、それともたまたま手元にプフがあったからなのか・・・? は定かではありません。

なお1960年代当時、シュタイア・ダイムラー・プフのモペッドはアメリカでは大手量販・通販のシアーズ-ローバックが取り扱っており、「オール-ステート モ-ペッド」のブランド名でアメリカ全土で広く販売されていました。

GMのエレクトロバンが水素燃料電池のみを電源にしたことに対し、コルディッシュのプフ改はヒドラジン燃料電池に、NiCad(ニッカド)電池を組み合わせたハイブリッド電池車だったのが特徴です。モーターは定格1kW、最高2kW出力のDCタイプ。16V・400Wのヒドラジン燃料電池2基は、車体上部に左右に振り分けて搭載。サドル下には、ヒドラジン収納容器(ステンレス製)を配置。そして左右のサイドバッグにはNiCad電池を収納し、2.5kWの電気を供給していました。

プフMS25の車体に、燃料電池とNiCad電池、そしてモーターを搭載するコルディッシュの作品。ヒドラジン溶液2リットルで約100km・・・つまり、約50km/ℓという実用的な燃費性能を有していました。なおこの写真には写っていませんが公道走行に求められる、オハイオ州の登録番号66296のナンバープレートが付けられています。

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まぁコンプライアンス的にGMが公道でのエレクトロバンのテストを控えた・・・ということもありますが、公道を走った史上初の燃料電池車の栄誉はコルディッシュのプフ改に与えても良いのではないでしょうか?

またコルディッシュは1970年に、自分のオースティンA40を水素燃料電池車に改造し、それを当時住んでいたボストンの街で日常の足として常用!! していました。エレクトロバン開発への貢献も含め、今日彼は「燃料電池自動車の父」として多くの研究者からリスペクトされています。

コルディッシュが1970年から3年間、愛用していたオースティンA40(1958〜1967年)改造FCEV。ルーフに6つの水素タンクを搭載し、ICEが収まっていた場所であるエンジンルームには複数の鉛バッテリーを搭載していました。その航続距離は約300kmと、なかなか実用的なスペックでした。

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彼が予測していた未来は、現実のものとなった!?

1977年にユニオン・カーバイド社を退職したコルディッシュは、故郷のオーストリアに戻りグラーツ工科大学の無機技術研究所所長、科学技術部長を歴任。その傍ら、1986年にカナダ・トロントにバッテリー・テクノロジー社を共同設立し、使い捨て電池の無駄をなくすために二次電池研究を続けました。

1997年には、多国籍代替エネルギー企業のアポロエネルギーシステムズ副社長に就任し、燃料電池の開発を任されることになります。『私は電気化学の仕事をしていて、趣味は電気化学だ』が口癖だったコルディッシュは英国王立協会、米国電気化学会などの賞を得る栄誉のほか、120の特許、4冊の著作、そして200以上の論文を残し、2011年1月12日にオレゴン州ユージーンで亡くなりました。

K.V.コルディッシュ博士(1922〜2011年、享年88歳)。

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オースティンA40改FCEVを走らせていたコルディッシュは、1970年に地元紙「プレイン・ディーラー」に『電気自動車の大量生産は、まだ何年も先のことだ』と冷静に答えていました。しかし当時から、いずれ彼が生涯をかけて研究に取り組んだ燃料電池や電池を動力とする自動車が、やがて主流になるという考えを、コルディッシュは持っていたのかもしれません・・・。

近年(※晩年の)コルディッシュは、自分が手がけた類の自動車(※EVやFCEV)が普及していくことを喜んでいたそうだ。息子のアルベルトは「彼は最終的には、電気自動車に移行していくことを知っていたのです」という。「彼は時代を先取りしていたのです」。

ちなみにこのプフ改ヒドラジン燃料電池/NiCad電池ハイブリッド2輪車は、オーストリア・ウィーン技術博物館に展示されています。世の中の混乱が一段落したら・・・ぜひ訪問してこの力作を間近で観察してみたいな・・・と思っています。