もしかするとラジコン好きの方(※オジサン世代以降)なら、このマシンに見覚えがあるのではないでしょうか? 日本を代表する模型メーカー、株式会社タミヤが製品化したこのレーシングサイドカー「BEO」は、当時の世界サイドカー選手権に多大なインパクトを与えた問題作? でした・・・。

サイドカーレースの「常識」への疑念から生まれた異色のマシン!

1979年に、タミヤが「B2Bレーシングサイドカー」というラジコンを販売していたことをご記憶の方が、はたしてLawrence読者の皆様の中にどれだけいるのでしょうか? このラジコンの商品名の中にある「B2B」とは、今回紹介するレーシングサイドカーが契機となって、当時の世界選手権に新たに創設されたクラスでした。

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1978年の世界ロードレース選手権(現MotoGP)のサイドカークラスは、1台の異色マシンの大活躍ぶりが話題となりました。ロルフ・ビランド/ケネス・ウイリアムズ組が乗る「BEOイマジン77A」は、第2戦フランスGPで見事デビューウィンを達成。このBEOは後輪と側車輪がほぼ同軸に寄せられ、4輪車のようにデファレンシャルギアを介して両輪を駆動する2WDサイドカーだったのです!

R.ビランド/K.ウイリアムズ組のBEO。当時28歳のビランドは1974年から参戦を開始し、サイドカークラスが世界ロードレース選手権のステイタスを保っていた最後の年の1996年まで活躍した名選手です。BEOに乗り1978年王者になったビランドは、その後1979年(B2A)、1981年、1983年、1992年、1993年、1994年と合計7度タイトルを獲得。そして通算81勝という大記録を打ち立てた、偉大なスイス人です。

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BEOが異色だったのは、2WD機構だけではありません。パワーユニット(ヤマハ製水冷2ストローク4気筒500cc・120馬力)は、パッセンジャーの背後にマウント。3輪の懸架方式はウィッシュボーンタイプを採用。そして後輪より内側にオフセット配置される前輪の操舵系は、4輪車のレイアウトを参考にしたものでした。

そもそもBEOを考案したのは、グイド・シーバーとビート・シュミットという2人の若者でした。サイドカーレースといえばパッセンジャーが曲乗りするように、コーナーで右へ左へ体を動かし荷重移動されるのが「醍醐味」のひとつですが、彼らはあんな危険なことをしなくても良いのではないだろうか・・・とサイドカーレースの「常識」に対する疑念を抱きました。

1960年ダッチTTのフロリアン・カマティアス/ローランド・フォル組。世界ロードレース選手権サイドカークラスでは1954年から1974年の約20年間、そのほとんどのタイトルをBMWフラットツインが独占していました。パッセンジャーが積極的に体を前後左右に動かし、車体の挙動をコントロールする姿を見るのも、レーシングサイドカー観戦の醍醐味のひとつです。

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当時大学生だった2人は、従来型とは全く違うサイドカー・・・という構想を学位論文にすることにしました。そして晴れて大学を卒業した2人に対してR.ビランドは、自分の1978年シーズン用マシンの製作を依頼。シーバー、シュミット、ビランドの3人はサイドカークラスの技術規則を徹底的に研究することから、1978年シーズン用マシン開発をスタートさせました・・・。

BEOの活躍により、サイドカーGPは2つのクラスに分けられることに・・・!

まず彼らがアシンメトリーな構成のサイドカーが「安定性」を得るために大事と考えたのは、マスの集中化でした。そのために重たいエンジンとギアボックスはほぼ同軸に配置された後輪と側車輪の中央に搭載され、パッセンジャーの着座位置はエンジンの前という構成を採用。そして前輪はレギュレーションが許す限界まで内側に寄せられました。

創意工夫により完成した1978年シーズン用BEOは、4輪車のように限界を超えるとスピンすることはあるものの、一般的なレーシングサイドカーのように転倒することは皆無なマシンに仕上がっていました。またエンジン推力やブレーキングフォースで「ヨー」が発生することはなく、さらに車体の安定性はライダー/パッセンジャーの動きに影響を受けることもありませんでした。

BEOに乗るパッセンジャー、K.ウィリアムズの仕事は、当時のGPのスタート方式である「押しがけ」のためにマシンをハードにプッシュすること・・・そしてスタート後はシートに腰掛け、コーナリング時に発生する、首にかかる強烈な横Gに耐えること・・・くらいでした。

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卓越した安定性を有するBEOは目論見どおりビランドの1978年タイトルの獲得に貢献しましたが、その異色な構成は1978年シーズン中からサイドカーレースのあり方についての議論を巻き起こすことになりました・・・。

もっともBEOだけでなく、当時はセイマツなどの側車輪操舵のマシンや、モノコックフレーム、ウィッシュボーンサスペンションなど、トラディショナルなサイドカーからガラリと変わった構造のモデルが登場しており、競技の公平性などについて様々な意見が噴出していました。そして議論の末、ロードレース世界選手権を統括するFIMは1979年からサイドカークラスを2つに分けることにしました。

「B2A」はトラディショナルな車両、「B2B」はプロトタイプ車両で競われることになるのですが、「B2A」「B2B」どちらを開催するかは各GP開催国の主催者判断でOK(※1979年は「B2A」が7戦、「B2Bが6戦開催」)。また、参加者の多くはどちらかのクラスだけに参加することを選んだため、両クラスともグリッドに並ぶ車両の数が少なめになってしまうという弊害もありました。

翌1980年、FIMはバイク+カーという元々の構成から遠く離れたプロトタイプ車により、パッセンジャーの役割が薄れることで観衆のレースに対する興味の減退を恐れ、プロトタイプの参加を禁止することにしました。つまり2クラス方式は1979年の1年のみでおしまい・・・になりました。

しかし1981年には、参加チーム側からの要望との妥協案として、新ルールの下でプロトタイプの参加を認めることになります。新ルールは"2WD禁止"のほか、側車輪操舵禁止、バイク式ハンドルバー以外の禁止、そしてパッセンジャーが積極的に操縦に関与すること・・・をプロトタイプに課していました。

なお、この1981年新ルールのなかにはウッシュボーンタイプ懸架装置の認可など、後年に緩和された項目もあります。ただしトライク的ホイールレイアウトや、2WDに関しては解禁されておりません・・・。

レア動画? タミヤ「B2Bレーシングサイドカー」の映像をお楽しみください?

BEOに乗って王者になったR.ビランドは、翌1979年はセイマツの本車側とシュミットのカー側を組み合わせたマシンに乗り「B2A」クラスで3勝してタイトルを獲得! トラディショナルなサイドカーでも、王者になれる実力があることをビランドは見事証明したのです。

そして「B2B」でビランドはBEOからLCR(ルイ・クリスチャン・レーシング)に乗り換え、4勝を記録しランキング首位の立場でシーズン最終戦を迎えました。しかし最終予選で、他の選手の手に渡った昨年までの愛機・・・BEOによる進路妨害に遭い、ビランドのLCRは第1コーナーで制御不能に陥って激しくクラッシュ! ビラントはこの事故で手首を骨折していまい、1979年度の2クラス制覇の夢はあえなく終了してしまったのです・・・。

RR WM d. ´78 Nürburgring SW Seitenwagen Biland Portrait BEO

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なお記事冒頭で紹介した、タミヤの1/8スケールラジコン「B2Bレーシングサイドカー」は1979年12月1日に発売され、当時の価格は9,800円でした。

BEOの2WDという特徴を活かし、当時では難しかったバイクのRC化を実現した商品です。今ではかなり激しいアクションも可能な、高性能2輪ラジコンが発売されていますけど・・・当時小学生だった私にとって「B2Bレーシングサイドカー」は紛れもなく、「夢の1台」でしたね・・・(遠い目?)。

Tamiya B2B Racing Sidecar

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