先日、MFJが2021年度全日本選手権では「パーソナルナンバー・・・希望ゼッケンは受け付けません」と発表したことが、大きな話題となっています。パーソナルナンバー・・・といえば、2輪GPにおける元祖はバリー・シーンです(強引な話題転換)。そんなワケ? で、彼にまつわる「7」つのトリビアを今回はご紹介します(巷でホットな話題に便乗した企画?)。

1 : GPキャリアで常に「7」番だったワケではありません

バリー・シーンといえば、ゼッケン「7」番にこだわったことがあまりに有名です。しかし、GPキャリアの間でずっと7番をつけていたわけではありません。50cc、125cc、250ccなどに参戦していたキャリア黎明期には、様々なゼッケン番号を使っています。

1975年のダッチTT。500ccクラスでのスズキ初優勝・・・そして自身のキャリア初優勝したB.シーン(スズキ)。この時のゼッケンは「6」番でした。

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グランプリの当時の最高峰、500ccクラスにスズキRG500(XR14)で挑戦を開始した1974年、バリーは32番とか15番とか30番とかをRG500に貼っていました。翌1975年は3番、6番、12番、そしてGP500ccクラスキャリア2勝目となるスウェーデンGPでは7番を使っていました。

常に「7番」を使うようになるのは初タイトルを獲得した1976年からで、1977年もチャンピオンナンバー「1番」を使うという慣習にあらがい「7番」を使用。そしてGPキャリアの最後となる1984年まで「7番」を使い続けたのです。

今ではスーパースターと誰もが認めるバリーですが、実績のない若手時代からパーソナルナンバーの「7」の使用をしていたわけではないのです。彼は粉骨砕身の努力の末、ちゃんと実績を残してからパーソナルナンバーの使用を万人に認めさせたわけですね。

2:「7」へのこだわりは、ホテルの部屋選びでも炸裂!?

スポーツ選手がゲン担ぎするのは古今東西珍しいことではありませんが、「7番」に対するバリー・シーンの執着はかなりのものでした。そのひとつはホテルの部屋選びで、彼はいつも「7」号室に宿泊することにこだわったそうです・・・。

もし7号室がすでに先客がある場合は・・・? そんな時バリーは、43号室とか124号室など、全ての数字を足して「7」になる部屋に泊まるようにしていたとか!!

3 : もうひとつのゲン担ぎは、親友のTシャツと下着のパンツの色?

社交的て憎めないキャラクターから、バリーは多くの人から愛されました。ゆえに、バリーはバイク業界の内外に多くの友人がいました。同業のレース界にも多くの友人がいましたが、最も仲が良かったひとりがアメリカンライダーのガリー・ニクソンでした。

デイトナ200マイルで、ともにスズキのワークスチームの一員として走ったG.ニクソン(左)とB.シーン。

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ある出来事以来、バリーはレースで出走する際、常に「G.ニクソンTシャツ」と青い下着のパンツを身につけることをゲン担ぎで習慣にしていました。そのある出来事とは、1975年のデイトナ200マイルで、バリーは時速175マイル≒281.6km/hという高速域でクラッシュしたことです・・・。

そんな大クラッシュでの複数箇所の骨折を乗り越え、バリーがカンバックしたのは有名なエピソードですが・・・そのとき、バリーはニクソンTシャツを身につけていたのです。幸せの黄色いハンカチ・・・もとい、幸せのニクソンTシャツってことですね!? でも、なんで青い下着のパンツもセットで着用するようになったのか? すみません、それはリサーチ不足でわかりません(苦笑)。

幸せ? のG.ニクソンTシャツを身につけるB.シーン(左)と、バリーの親友のひとりだったジョニー・チェコット。1975年のマニクールでのひとこまです。

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4 : グランプリの50ccクラスと500ccクラスで勝利した、唯一無二のライダー!

かつてGPには、1962〜1983年の間に50ccクラスが存在していました。バリーはGPデビューの1970年スペインGP125ccでスズキRT66に乗り、2位表彰台を獲得。翌1971年は同じスズキRT66で3勝を記録しランキング2位を獲得。また50ccクラスではファン・フィーン・クライドラーに乗り、チェコGPで優勝を記録しています。

1971年、GP50ccクラスでファン・フィーン・クライドラーを駆るB.シーン。

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ソロ5部門(50および80、125、250、350、500cc)時代は1962〜1982年まで続きましたが、その期間に最小の50ccと最大の500ccクラス、両方で勝利したことがあるライダーはバリーが唯一無二です。全く性格の異なる2つのクラスで優勝をすることができた彼は、やはり天才だったと万人が認めるでしょう。

5 : レーザースーツのバックプロテクター普及は、バリーがきっかけでした

今日、ロードレース用のバックプロテクターは当たり前の装備となって久しいですが、バリーが主に活躍した1970年代のレザースーツは、十分なプロテクターがないのが当たり前でした。

そんな当時、バリーは乗馬の騎手用のフォームラバー製バックガードを、ロードレース用にアレンジして使用。そして1977年、彼は契約していたダイネーゼに、それをコピーするように貸し出しています。

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1979年に、ダイネーゼはバリーのフィードバックをもとに開発した初のバックプロテクターを発表。そして1980年代のGPシーンでその有用性は実証されることになり、今日ではすっかりプロテクターの定番として普及しているのです。

6 : あのMVアグスタ入りも、もしかしたらあったのです!

先述のとおり、バリーは1974年よりスズキのワークスライダーとして500ccクラス参戦を開始していますが、じつはMVアグスタにその才能を買われ、1974年にフィル・リードのMV4気筒をイタリアのモンツァでテストしていたのです。

英国のノンタイトル戦(おそらくマロリーパークの"レース・オブ・ジ・イヤー"で、1976年ですね?)でMVアグスタ500に跨るP.リードと、スズキTR750に跨るB.シーン。後方にはヤマハ350の、片山敬済の姿があります。

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しかし、父フランクが名うての名2ストロークチューナーであり、キャリア初期から父が面倒を見た2ストロークマシンに慣れ親しんできたバリーは、結局4ストロークのMVアグスタのライダーになることはありませんでした・・・。

後にバリーは「俺は4ストロークが嫌いだ!! アレについているバルブはすべて不要だよ(笑)」とうそぶいています。これは、バリーファンの間では有名な、彼のエピソードのひとつでもあります。

もっとも、器用なバリーは4ストロークのライディングを苦手にしていたわけではありませんでした。2ストロークマシンがメインだったバリーのキャリアですが、ガス・クーン・ノートン2気筒、そしてダンストール・スズキのGS1000などの4ストロークで、バリーは活躍してもいるのです。

1970年のモンジュイ24時間耐久レースで、ガス・クーン・ノートン750を駆るB.シーン。

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7 : あの・・・著作権的に大丈夫なんですか?

バリー・シーンといえば、パーソナルナンバーのゼッケン「7」番のほか、某アメリカ資本の企業の有名キャラクターをヘルメットにあしらい続けたことで有名です。その某アメリカ資本の企業は、とても著作権について恐ろしいウワサがあることで有名ですが、その辺は大丈夫だったのでしょうか?

こちらが皆さんお馴染みの、バリーのヘルメットに描かれた、某有名キャラクターです。

www.barrysheene7.com

子供の頃にかぶっていたヘルメットにこのキャラクターが描かれていたことから、長年愛着があってバリーはヘルメットにこのキャラクターを使い続けていたそうです。実はバリーがGPスターダムの階段を駆け上っていた頃、ディズニー(あ、書いちゃった!?)のエージェントからバリーにコンタクトがあったそうです。

その時バリーは、怒られるのかな? と覚悟をしていたそうですが、エージェントは非常に友好的で、ドナルドダック(あ、書いちゃった!?)の使用についてクレームを言われることはなかったそうです。世界的に有名なあの企業も、世界的に大人気な人物であるバリーには、キャラクターの使用については不問にするくらいだったわけですね。

ナンバー「7」の男、バリー・シーン・・・その後、多くのライダーがパーソナルナンバーを使うこと自体当たり前になって久しい今日ですが、実績と人気でそれを可能とした先駆者・・・バリーがいかにキャラクターが立っていてカッコ良いライダーだったのかを、7つのトリビアをとおして再認識していただければ幸いです。